だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。
マタイの福音書 6:24
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大谷翔平選手の通訳をしていた水原氏の例を持ち出すまでもなく、私たちは金に弱い。
金があればなんでも買える、金があればなんでもできる、金さえあれば…。
そうしてあらゆる価値の頂上に金が君臨し、私たちの価値観を規定する。
金は何かと交換するためのチケットに過ぎないが、そのチケットに私たちは翻弄される。ときに命の危険に晒されることだってある。
聖書は、神と金の両方に仕えることはできないと説く。
そもそも同列に扱うこと自体、おかしいのに。神は神、金は金、どちらが大切か? って問いはナンセンスだ。けれど、私たちは神の座に金を置き、God firstではなくCash firstな生き方を選んでしまう。
気を付けておきたいのは、聖書は貧乏であること(清貧という美しい言葉と混同しないように)を奨励しているのでない、ということだ。*
聖書の中には、富める者と貧しい者を対比した場面がある。
たとえばルカの福音書21章には、金持ちの献金と貧しいやもめの献金についてイエスが述べたことが記されている。
まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。(ルカ21:3-4)
ここでイエスは献金の額の多い少ないを指摘しているのではない。献げる人の姿勢を問うている。
必要なものを先に手に入れてその残りを献げた金持ちに対して、やもめは持っているものを惜しむことなく献げた。
このやもめの献げる姿勢は「足るを知る」を思い起こさせた。
つい先日、京都の龍安寺で「吾唯足知」(ワレタダタルコトヲシル)のつくばいを見たばかりだからかもしれない。
金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。(へブル13:5)
まさに「足るを知る」である。
*
もう1箇所、長いがこれも引用したい。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。(第一テモテ6:6-10)
くどいが、貧しさを礼賛しているのではなく「足るを知る」ことを奨励しているのである。金持ちが愚かだと断じているのではなく、金持ちになりたがる人に巣喰う有害な欲望を戒めているのである。
富に仕えず、神に仕える。富の奴隷になるのでなく、神の奴隷になる。
嫌々ながらではなく喜んで献げる。あまりものではなく持てるものをまずは献げる。主は私たちが献げる額ではなく、献げる姿勢を見てくださる。
与えられた恵みに感謝することこそ「足るを知る」ことである。
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(第一コリント10:31)
主よ感謝します。