聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

イースターの希望

f:id:songchi0326:20240328091730j:image

ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。

マタイの福音書 21:9
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+

イースターペンテコステ・クリスマス。キリスト教の三大祭りである。

クリスマスは日にちが決まっているし、特に日本ではクリスチャンかどうかに関係なく誰もが祝うから完全に定着していると言っていい。

願わくは、クリスマスを通して一人でも多くの日本の方々が、神の存在に触れること、神に立ち返ることを願う。

一方、イースターペンテコステは年によって変動するからどうもわかりにくい。

2024年は、イースターが3月31日で、ペンテコステが5月19日となっている。それは、イースターが「春分の日の後の満月の直後の日曜日」と定義されているからであり、ペンテコステが「イースターから50日目の日曜日」と定められているからである。

それでもイースターは、おそらくDisneyのおかげだと思うが、日本でも馴染んできた感じがする。そういえば、イースターのモチーフとしてウサギやタマゴが使われる。多産や生命の象徴であるが、後付けなのかが気になって調べてみた。

すると、イースターバニーの起源は16世紀に遡ることがわかった。後付けとはいえ、それなりに歴史があるものであった。

さて、イースターはイエスキリストの復活を祝う復活祭であり、その直前の1週間を受難週と言う。

イスラエルの当時の祭りの習慣を知り、聖書を読むと、この1週間がどれほど重要かがわかる。曜日を追って並べてみる。

日曜日:棕櫚(しゅろ)の主日
月曜日:宮清め
火曜日:イエスの嘆き
水曜日:油注ぎ
木曜日:最後の晩餐
金曜日:受難日(裁判・十字架・埋葬)
土曜日:ローマ兵による墓の見張り
日曜日:復活

今日の聖句は、棕櫚(ナツメヤシ=Palm tree)の主日エルサレムの群衆が放った言葉である。群衆はエルサレムに入城されたイエスを歓迎し、棕櫚の葉を道に敷いた。

ホサナ!とは「主よ救ってください」の意で、ローマの支配下にあったユダヤの民が、イエスを政治的な王として崇め、自分たちを苦境から救い出してくれることを期待して、熱狂したのだ。

しかし、民衆の歓迎ムードはわずか1週間の間に急激に冷え込み、期待は失望に、熱狂は憎悪に変わってしまった。

ホサナ!と歓迎した人々が、その数日後には、十字架につけろ!と激しく訴えた。

ローマの支配から解放してくれる政治的な王としてのキリストではなく、人類の罪の贖いのため、自らを犠牲の献げものとして現れた宗教的な王であるキリストは、彼らには不要だったのだ。

いま、私たちは史実として、イエスキリストが神の御子としてこの世に来たこと、十字架で死んで墓に葬られたこと、そして3日目に墓から甦ったことを知っている。

いまを生きる私たちには新約聖書が与えられているから。

一方、ユダヤ教徒新約聖書を避けるため、実は2000年前のイスラエルと同じ状態がいまも続いている。ただ、少しずつではあるが、イエスこそ救い主であると信じているMessianic Jewsが増えていることは事実である。

ヨハネ福音書を読むと、イエスの弟子たちはイエスの死に際して逃げたりうろたえたりで、平静さを失っていた。しかし、二人のユダヤ人がイエスの亡骸を引き取り、丁寧に埋葬した。この二人こそ極初期のMessianic Jewsと言えよう。

少し長いがその箇所にあたるヨハネ福音書19章の39〜42節を引用する。

39.その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。

40.以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。

41.彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。

42.その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。

十字架刑の者の亡骸は野晒しにされるのが普通であるのに、木から引き下ろすことが許可されただけでも例外的。こうして二人の行為が記されていることで、イエスが墓に埋葬されたことが事実であると証明される。

それがなければ墓から甦ることはできず、預言は成就せず、ゆえに私たちの希望もなかった。

私たちの希望、それは復活の主に会うとき、ホサナ!と喜ぶことである。私たちは「望んでいることを確信し、まだ見ていない事実を確認する(ヘブル11:1)」ゆえ、希望を持ち続けることができる。

賛美しよう。

Hosanna

https://youtu.be/l2v9XCsfOEE?si=JKcCGKeB7MqGK-Ps

Hosanna, hosanna, hosanna in the highest.
Hosanna, hosanna, hosanna in the highest.
Lord, we lift up your name,
with hearts full of praise.
Be exalted, O Lord my God;
hosanna in the highest.

神の褒めことば

f:id:songchi0326:20240320165142j:image

よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

マタイの福音書 25:23
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+

よくやった!と褒められると嬉しいものだ。

子どもの頃なら、それはテストで100点を取るとか、大会で優勝するとか、そうした何らかの行為に対する結果が優れていたときに、周りの大人からかけられる言葉である。

褒められたときの子どもの達成感に満ちた表情はいいものだ。

もちろん100点じゃなくても、優勝じゃなくても、プロセスを認めてあげることは大切だし、努力に対して、よくやった!と褒めることは、子どもの健全な教育には必要不可欠だと思う。

大人になると褒められることはグッと減る。

おめでとう!素晴らしい!と言われることがあっても、子どもの頃のように素直に喜べないことだってあるだろう。

よくやった!と言われたときに子どもが見せる笑顔は、ただその結果が嬉しかったからだけではなく、そのことを通して自分が認められたこと、自分の存在を全面的に肯定してくれたことに対する安堵や歓喜から来る。

さて、今日の聖句は、イエスの「タラントのたとえ話」に出てくる1節で、与えられたタラント(財産)を用いて、主人が長旅に出ている間に財産を増やしたしもべに対して主人が言った言葉である。

実際は「よくやった!」と言われたのは、3人のうち2人のしもべであり、褒められなかった1人は、預かった財産を適切に運用することなく、地中に埋めて隠していた。

そのしもべに対して主人は厳しい言葉を投げつける。長いが引用しよう。

悪い怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。(25:26-29)

厳しいが、これが神の国の原則だ。

良い忠実なしもべに対して、悪い怠け者のしもべと言われる。持っている者はより与えられて豊かになるのに、持っていない者は持っているものまで取り上げられてしまう。

私たちは、神から預けられた財産(与えられた賜物)を適切に運用していくことが求められているのだ。

クリスチャンなら、誰もが天国に行ったときに主からこの言葉を聞きたい!と切望する。

この世で忠実なしもべとして生かされたことに対する神の褒め言葉として「よくやった!」と言われたい。全面的に受け入れてくださったことを喜びたい。

100%神に褒められる生き方をしてきたわけじゃないけれど、あなたに従い生きてきました。聖書に忠実な生き方をしてきたわけじゃないけれど、あなたを愛し生きてきました。

そうして神に褒められたい。

神は、私たち1人ひとりをちゃんと名前をもって認識してくださる。私という、ほんの小さな1人の存在を知ってくださる。

よくやった、良い忠実なしもべだ。

いつか天国で。

自分の丸太

f:id:songchi0326:20240313212247j:image

裁いてはいけません。自分が裁かれないためです。

マタイの福音書 7:1
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+

4月からの新しいチーム編成に向けて、誰が何を担うかなど、役割分担の話をしている。

すると「Aさんはセールスのスキルが高いからこのタスクをやらせたい」とか、「Bさんはセールスに向いていないから他のタスクに変更させる」といった生々しい話になる。

スキルが高いか低いか、実績を上げているか上げていないか、こうしたことを踏まえて配置や役割を検討するのは、セールスの部署だから当たり前と言えば当たり前である。

問題はそこで話が終わらないことだ。

スキルや実績に留まらず、容姿や人格にまで話が及ぶと、これは許されることではない。けれどそうなってしまう。

しっかり区別して話していないと、簡単に間違った方向に話が展開してしまう。

このように私たちは知らず知らず、人を裁いている。

そう、知らず知らず。だから怖いし、だから厄介である。裁いていることに気が付かないのだから。

エスはこのことを実にうまいたとえで話している。

あなたは兄弟の目にある塵は見えるのに、自分の目にある梁にはなぜ気が付かないのですか。兄弟に向かって「あなたの目から塵を取り除かせてください」と、どうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目から塵を取り除くことができます。(7:3-5)

塵(別訳では「おが屑」)と梁(別訳では「丸太」)を対比させて、自分が持っている大きなマイナスを見ることなく、相手の小さなマイナスを突くことを厳しく断罪する。まずは自分のマイナスを改善し、それから相手のマイナスを見る、この順ではないかと。

今日取り上げたマタイの福音書の聖句では「裁いてはいけない、さもないとあなたも裁かれるだろう」となっている。

一方、ルカの福音書では同じ箇所が「裁いてはいけません、そうすればあなたがたも裁かれません」(ルカ6:37)となっていて、「命令形, or ~:さもないと」「命令形, and ~:そうすれば」と覚えた中学校英文法を思い出す。

orの方が強迫的で、andは説得的なニュアンスがある。こういう微妙な訳の違いが面白い。

さて、私たちは、ときに自論を正論であると振りかざして、相手の自論を異論であるとみなしてマウントを取る。

考えてもみれば当たり前で、相手の自論が正しくて、自論が間違っているとは認めたくないものだ。

ただ、マウントを取ったとしても、批判すべきは相手の自論であって、相手の人格ではないから、そこは気をつけなければならない。

自分のことを棚に上げて他人を批判することは、よくない意味に取られるけれど、批判している中身が何であるか?も大切で、棚上げする行為を逆に批判していたら泥試合になる。

裁かないためには、相手が持っている小さな塵を取り除こうとする前に、自分がもっている大きな丸太を認識しておかねばならない。

塵が気になったら、立ち止まって丸太を見るといい。そして、相手を裁くことを踏み止まったら、天に宝を積んだことになるのだ。

最終的な裁き手は主なる神、ただ一人である。

 

インテグリティ

f:id:songchi0326:20240306204806j:image

また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。

テトスへの手紙 2:7-8


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+

3月に入ると、年度末ということもあり、部署の1年間の活動を振り返る。

今回の総括は訳あって単年度ではないところがいつもと異なり、思っていたよりちょっと大掛かりになっている。ま、落ち着いたら、いずれゆっくり向き合おうと思う。

さて、チーム全体の活動を月ごとに、そして施策ごとに整理するとき、チームのメンバーがどう考えどう動きどういう結果を得たのかをチェックしながらも、そのとき自分は各メンバーとどう関わろうとしたのかを思い起こす。

数値目標だけ示してそもそもの目的を伝えていなかったのではないか? 行き詰まりを覚えていたメンバーに適切な声掛けができていなかったのではないか? 相談されたときぞんざいな態度や言葉遣いをしてしまったのではないか?

このような苦々しい思いが、次から次へと浮かび上がってくる。

チームのリーダーとして、言葉や行いは適切であったであろうか、自分自身を顧みる。

使徒パウロクレタ島で、教会のリーダーとして奉仕しているテトスに宛てた書簡は、テトスへの励ましとともにリーダーシップ教育にもなっている。

今日の聖句はまさにその中心と言える箇所である。

・良いわざの模範となりなさい
・人を教えることにおいて偽りがなく
・品位を保ち
・非難する余地がない健全なことばを用いなさい

ノブレス・オブリージュを彷彿させる。

白洲次郎に言わせれば、それはプリンシプルになるだろう。

品性にあたる英語は、integrityとある。integrateが統合するという意味であるから、品性とは、一貫性があり健全性を伴い整合性が取れていることを指すのだと思う。

ちなみにこの聖句の直前には、具体的に誰に対してどう接したらよいか、具体的なアドバイスが書かれている。

年配の男の人には、自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように。同じように、年配の女の人には、神に仕えている者にふさわしくふるまい、人を中傷せず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。(中略)同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。(2:2-3,6)

特に、最初の年配の男の人には…のところは現実的に刺さる。

修士論文のテーマが「ミドル・シニア人材の部下のパフォーマンスを高める管理職のマネジメントに関する研究」だったこともあり、テトスに対するアドバイスは決して他人事ではない。

私はなかなか自分を制する(律する)ことができず、苦しむことがある。慎み深くあろうとしても、自己中心から脱却することは難しい。

しかし神はそんな私を見つけ出し、救い導き、この世の役に立つように用いてくださる。神の栄光を映し出す鏡として立たせてくださる。欠けのある存在であっても神にとっては「わたしの目には、あなたは高価で尊い。(イザヤ43:4)」のだ。 

練られた品性を身につけられますように。

 

 

やり返さない

f:id:songchi0326:20240301005231j:image

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。

ペテロの手紙 第一 3:9


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+

ハムラビ法典を思い出した。

「目には目を歯には歯を(An eye for an eye and a tooth for a tooth)」と高校の世界史で習った。

そのとき、おそらくは正しい意味を教えてもらっていたと思う。これは同害報復を命じるもので、必要以上の仕返しを禁じた法律である、と。

しかし、高校生の私は「やられたらその分だけキッチリやり返すべし」と受け取った。愚かであった。

そして世間ではそのような誤用が今もされている。「やられたらやり返す」はまさにそうだし、有名なドラマの「やられたらやり返す、倍返しだ」は同害報復の原則に反するから、明らかな律法違反になる。

旧約聖書にも同害報復を定めた箇所がある。

骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。(レビ記 24:20)

聖書的には「自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う(24:15)」から派生することとして、同害報復を命じている。なぜなら「わたしがあなたがたの神、主だから(24:22)」とある。復讐するは我(神)にあり、と似ている。いくら古代イスラエルが神による律法国家であるとはいえ、裁きは神の領域ということを忘れてはならないと思う。

しかし、新約聖書になると、イエス自身がこのことに言及し、こう述べている。

「目には目を、歯には歯を」と言われていたのを、あなたがたは聞いていますら、しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。(マタイ5:38-39)

エスは決して旧約を否定したのではない。

否定ではなく、同害報復の律法を正しく理解(やられたらやり返すではない)した上で、新しい律法の解釈を与えているのだ。右の頬をぶたれたら左の頬を向けなさい、下着を取ろうとする者には上着も与えなさい、1ミリオン(1.5キロ)行くことを命じられた者とは一緒に2ミリオン行きなさい、求める者には与えなさい。このようにイエスは律法の再定義を理解させるために畳みかけてくる。

これを聞いたユダヤ人の驚きと動揺が伝わってくる。私たちの理解を超えた神のパラドクス、凄すぎる。

民衆はおろか、最も身近にいた弟子たちでさえ、驚愕したことだろう。

それは一番弟子のペテロも同じで、自身の書簡に記した今日の聖句の箇所を読めばそれがわかる。

この書簡は、イエスの死後30年ほど後に書かれたもので、ユダヤ人向けではなく異邦人に向けて書かれている。つまり、現代に生きる私たちにも適用できる、ということだ。

一番弟子として、使徒として伝道に生涯をささげ、多くの人々をキリストへの愛に導いた。そのペテロがイエスの述べた真理を、自分のことばで語っている。このペテロの言葉に、イエスが去ってからの30年間の歩みの重みと、重ねてきた信仰を思う。

ペテロはいう。

嫌なことをされてもそれを返さないようにしなさい。侮辱されてもそれを返さないようにしなさい。イエスのたとえの過激さがやや和らげられている。とはいえ、だから簡単になったわけではない。むしろ、実際よくある場面だからこそ、より身近に感じられ、そして迫ってくるものがある。

ペテロは続ける。

むしろ祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです、と。

やり返さずに祝福をする。このことのなんと難しいことか。聖書を読んで把握しているペテロの性格からして、ペテロ自身が一番試されたのではないかと思う。打てば響くペテロは、誰よりも情に厚く感情的な男であっただろうから。

ペテロは「私たちは祝福を受け継ぐために神に呼ばれたのだ」という。祝福を与えるためには、祝福されていなければならない。そう、これがペテロの確信だ。

漁師をしていたペテロに「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしよう(マタイ4:19)」と言われたイエスに、網を捨ててすぐに従った原体験を終生忘れなかっただろう。イエスの招き、それは網を捨てて従ったまさにそのときであり、そのときが祝福を受け継ぐために召されたときであった。

ペテロの確信に連なり、祝福を受け継ぐ者として真理を実践しよう。

 

可燃型クリスチャン

f:id:songchi0326:20240221194107j:image

「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

コリント人への手紙 第二 4:6
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+

営業パーソンをタイプ別に「自燃型・他燃型・不燃型」と分類することがある。

自燃型とは、特に手をかけずとも、勝手に動く人材で、まさに自家発電タイプである。

他燃型とは、自分から勝手に動くことはないが、助言したりけしかけたりすれば動き出す人材のこと。多くの営業パーソンはこのタイプかと思う。

そして不燃型。これは押しても引いても動かない岩のような人材で、管理職としては手をあぐねるタイプである。

どうしてこんなことを書き始めたかというと、クリスチャンにも「自燃型・他燃型・不燃型」があるのではないか?と思ったからだ。

しかし、同じ3つのタイプでも営業パーソンとクリスチャンは異なっていて、自燃型はあり得ないと思っている。

私の持論は、自燃型のクリスチャンはいない。自ら光を放つことができる存在は神しかいない、である。

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。(第一ヨハネ 1:5)

にある通り、神は光だからである。

なんだか周りくどい話の展開になってしまったが、クリスチャンの3つのタイプは「可燃型・他燃型・不燃型」となる。

自燃型ではなく可燃型、である。

照らされると喜んでそれに応答する可燃型、照らされると思い出してそれに応答しようとする他燃型、照らされると背を向けて拒否する不燃型。

可燃型クリスチャンは、泣くものと共に泣き、喜ぶものと共に喜ぶことができる人。みことばに親しみ、よく祈る人。

他燃型クリスチャンは、一見するとクリスチャンか分からないけど、日曜日には礼拝に出席してみことばに触れる人。

不燃型クリスチャンは、信仰告白して受洗していても、なんらかの理由で信仰に躓き、みことばに背を向けてしまっている人。

自ら発火する太陽が神であり、私たちは太陽の周りにいる惑星、それを受けて光り輝く存在である。

アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった。(出エジプト‬ ‭34‬:‭30‬ 新共同訳‬)

神の光を受けて輝くものでありたい。主よ、私たちの心を照らしてください。

 

からだと部分

f:id:songchi0326:20240214080417j:image

あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

コリント人への手紙 第一 12:27

+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+

組織マネジメントにおいて、ダイバーシティとかインクルージョンとか言われて久しい。

最近ではそこにエクイティも加わり、DE&Iなんて言ったりする。

カタカナは難しい(なんとなく分かるレベルに留まってしまう)ので、日本語訳を見てみると「Diversity=多様性、Equity=公正性、Inclusion=包摂性」とあった。

このDE&Iは、外資系ヘルスケア企業で働いている友人に教えてもらった。

とかくDiversityだけが取りざたされ、女性従業員の比率を高めるとか、障碍者を積極的に雇用しようとか、表面的なことに終始するけどそれだけでは組織は活性化しないんだ、と。それから、EがEquality(平等性)ではなくEquity(公正性)なのがポイントなんだ、とも言っていた。

グローバルで働いている人にとっては、さらに国籍や宗教なども絡んでくるだろうから、Diversityだけ重視してもInclusion(包摂性=異なる意見や立場・文化・価値観などを受け入れ調和を図ること)がなければ、それは同じ目的を共有して働くチームではなく、ただのグループ・集団に過ぎないことを身をもって味わっているのだろう。

さらに、包括的に受け入れるためには、平等性ではなく公正性こそ大切であることも実感するのだろう。

が、しかし、言うは易しであろう。

コリント人への手紙第一の12章は「からだ」を例に、一人ひとりが全体にとっていかに欠かせない存在であるか、説明されている。

読みながら、これはDE&Iのことだなと感じた。

いくつか節を抜き出す。

・からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても一つのからだであるようにキリストもそれと同様です(12:12)

・からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています(12:14)

・もし、からだ全体が目だったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が耳だったら、どこで匂いを嗅ぐのでしょう(12:17)

・もし、全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょう。実際、部分は多くあり、からだは一つです(12:19-20)

・からだの中には分裂がなく、各部分が互いのために配慮しあう(12:25)

・一つの部分が苦しめばすべてが苦しみ、一つの部分が尊ばれればすべてが喜ぶのです(12:26)

実にわかりやすい。

「からだ」を組織、「一つ」を一人、「部分」を人材に置き替えてみる。

すると、一人ひとりの人材には、与えられた役割があり、私たちは与えられた役割に従って働くことで組織に貢献する。

と解釈できる。

しかし、ここで言う役割は、Job Descriptionのように表面的に明示されているタスクに留まらず、もっと深いところ、もっと根本的なところにある役割を意味する。

役割と言ってしまうと、どうしても義務的なニュアンスが伴うから、やはりここはクリスチャンとして、神から与えられた賜物(ギフト)と言いたい。

賜物は私たちの存在意義に直結するから。

キリストという「からだ」を構成する私たち「部分」には、一人ひとりにオリジナルの賜物が与えられている。それがダイバーシティである。

エクイティやインクルージョンを兼ね備えることは難しいが、ペテロのアドバイスがある。今日の聖句と合わせて咀嚼することで、クリスチャンとしてDE&Iを実践するものでありたい。

それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。(第一ペテロ 4:10)

受け取った賜物を適切に管理すること、用いること、そして互いに支え合うこと、これである。