私はどこへ行けるでしょう。
あなたの御霊から離れて。
どこへ逃れられるでしょう。
あなたの御前を離れて。
詩篇 139:7
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オンライン礼拝も2ヶ月以上になる。
緊急事態宣言が解除され、もう通常礼拝を再開してもいい頃かなと思う。
しかし、多くの人が一度に集まることで、感染リスクがどうしても高まる。教会内には慎重な意見の方も多く、再開はまだまだ先になりそうだ。
いつもなら、月の最初の日曜日には聖餐式がある。それが、この4月5月は取り止めになっていた。
そんなとき、牧師からメールが来た。礼拝をオンラインでやっているからといって、聖餐式ができない理由はどこにもない、やらずにいたことを申し訳なく思うと、そんな内容だった。
そういうことがあって、今週の日曜日は、オンライン聖餐式を行なった。事前にグレープジュースとクラッカーを購入し、備えた。
みんなで集まってやることに意義があるのではない。私と神との個人的な関係において、月に一度の聖餐式という儀式がどれほど大切であったかを実感した。祝された。
なぜ、この話なのかというと、聖餐式において、牧師が読唱する聖句が、詩篇139篇だからである。
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7節に至るまでの、1から6節を読む。
すると、私たちが神の前ではいかに無力であるかを知らされる。
・主は、私を究めている!
・座るのも立つのも知っている!
・遠くから、私の思いを読み取られる!
・歩くのも伏すのも見分けられる!
・私の道すべてを知り抜いておられる!
・言葉が舌にのぼる前に、主はその全てを知っておられる!
・主は、私を前から後ろから取り囲み、御手を私の上に置かれる!
これはもう、完全に白旗を掲げるしかない。
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例えば、陶芸家が土をこねて作品を作ったとする。
完成形をイメージしながら、その過程で修正を施し、力を入れてこねたり、削ったり、模様を描いたり、そうしてイメージ通りに作り上げる。
出来上がった土の器のことは、作り手である陶芸家が一番よく知っている。
何に使うと一番いいのか、どう使うと長持ちするのか、どうしたら壊れてしまうのか、そのように、よく知っている。
同じように、私たちを創り上げた神は、私たちを何に用いると一番いいのか、どう用いると益となるのか、どうしたら滅びるのか、よく知っている。
神の前で、私たちは無力なのだ。
神から離れてはどこに行くことも、どこに逃げることもできないのである。
これは悲惨か?
これは束縛か?
以前はそう思っていた。
しかし、今は違う。
神から離れずにいること。実は、これこそ一番の自由であることが分かったのだ。