聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

あなたなしでは

f:id:songchi0326:20200610201638j:image

私はどこへ行けるでしょう。
あなたの御霊から離れて。
どこへ逃れられるでしょう。
あなたの御前を離れて。


詩篇 139:7


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


オンライン礼拝も2ヶ月以上になる。


緊急事態宣言が解除され、もう通常礼拝を再開してもいい頃かなと思う。


しかし、多くの人が一度に集まることで、感染リスクがどうしても高まる。教会内には慎重な意見の方も多く、再開はまだまだ先になりそうだ。


いつもなら、月の最初の日曜日には聖餐式がある。それが、この4月5月は取り止めになっていた。


そんなとき、牧師からメールが来た。礼拝をオンラインでやっているからといって、聖餐式ができない理由はどこにもない、やらずにいたことを申し訳なく思うと、そんな内容だった。


そういうことがあって、今週の日曜日は、オンライン聖餐式を行なった。事前にグレープジュースとクラッカーを購入し、備えた。


みんなで集まってやることに意義があるのではない。私と神との個人的な関係において、月に一度の聖餐式という儀式がどれほど大切であったかを実感した。祝された。


なぜ、この話なのかというと、聖餐式において、牧師が読唱する聖句が、詩篇139篇だからである。



7節に至るまでの、1から6節を読む。


すると、私たちが神の前ではいかに無力であるかを知らされる。


・主は、私を究めている!
・座るのも立つのも知っている!
・遠くから、私の思いを読み取られる!
・歩くのも伏すのも見分けられる!
・私の道すべてを知り抜いておられる!
・言葉が舌にのぼる前に、主はその全てを知っておられる!
・主は、私を前から後ろから取り囲み、御手を私の上に置かれる!


これはもう、完全に白旗を掲げるしかない。



例えば、陶芸家が土をこねて作品を作ったとする。


完成形をイメージしながら、その過程で修正を施し、力を入れてこねたり、削ったり、模様を描いたり、そうしてイメージ通りに作り上げる。


出来上がった土の器のことは、作り手である陶芸家が一番よく知っている。


何に使うと一番いいのか、どう使うと長持ちするのか、どうしたら壊れてしまうのか、そのように、よく知っている。


同じように、私たちを創り上げた神は、私たちを何に用いると一番いいのか、どう用いると益となるのか、どうしたら滅びるのか、よく知っている。


神の前で、私たちは無力なのだ。


神から離れてはどこに行くことも、どこに逃げることもできないのである。


これは悲惨か?
これは束縛か?


以前はそう思っていた。


しかし、今は違う。


神から離れずにいること。実は、これこそ一番の自由であることが分かったのだ。

山を見上げて

f:id:songchi0326:20200603013801j:image

私は山に向かって目を上げる。
私の助けはどこから来るのか。


私の助けは主から来る。
天地を造られたお方から。


詩篇121:1-2


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


高校生のときのことだ。


帰り道を自転車で漕いでいると、特に冬の季節に酷かったのだが、激しい向かい風に悩まされることがよくあった。


この風のことを地元では「伊吹おろし」と言って、平野にも関わらず、ときに大雪をもたらした。


日本海側の冬の季節風が、若狭湾から琵琶湖地域で降雪や曇天をもたらし、関ヶ原を越える頃には乾いた冷たい風となって濃尾平野に吹き込む。これが伊吹おろしと呼ばれる」※Wikipediaより


この風を真正面から食らいながら、歯を食いしばって帰宅したことをよく覚えている。遠くに冠雪した伊吹山を眺めては、恨めしく睨みつけていたものだ。


そのとき、助けてください!と祈る謙虚さが私にあったらよかったのだが、世界は自分中心に回っていると勘違いしていた当時の私にそんな気持ちは毛頭なかった。



クリスチャンファミリーで、山中湖にキャンプに行ったときのことだ。


湖越しに壮大な富士山の雄姿を眺め、創造主を心に感じては、ともに賛美し、祈ったりした。


今ならわかる。


私を助け、ここまで導いてくれたのは、私ではなく神なのだ、と。


山を睨みつけていた私は、トゲを抜かれ、謙遜を学び、山を眺めて頭を垂れる者に変えられた。


この詩篇にあるように、私の助けはどこから来るの? と聞かれれば、私の助けは天地を造られた神さまから来るのだと、今なら即答できる。



詩篇121篇は、このシンプルな問答を経て、助け主である主が、どのような方なのか説明が続く。


・主は、あなたの足をよろけさせない。
・主は、まどろむことも眠ることもない。
・主は、あなたを守り右手を覆う。
・主は、禍いからあなたを守り、たましいを守る。
・主は、あなたを行くにも帰るにも守られる。


ユニークなのは「右手を覆う」という表現だ。


右に出る者がいないと言うように、右手とは、自分の力や権威を表す。それを神が覆うということは、神の支配や保障を示し、さらに神への私たちの従順をも示している。


神の支配と保障…そう。


父なる神は、私たちの罪を拭うためにイエスキリストをこの世に遣わし、子なる神イエスキリストは、私たちを助け導くために聖霊を遣わした。


これが神の支配、そして保障である。


その聖霊が降ったことを祝う日が、ペンテコステ聖霊降臨日)である。今年は5/31だった。


聖霊が私たち一人ひとりに与えられ、日々私たちを訓練し、正しい道へと導いてくださる。


エスはこう語った。


「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます」


私の助けは主から来る!

 


「山を見上げて」を賛美しよう。
https://youtu.be/lg3r6GzSBs8

わがたましいよ

f:id:songchi0326:20200528140510j:image

まことにあなたは
私のたましいを死から
私の目を涙から
私の足をつまずきから
救い出してくださいました。


詩篇 116:8


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


思えば、神を知る前の自分は何者だったのだろう。


GWの連休に、どこにも出かけられないから、1日かけて古い写真を整理した。


アルバムに貼らないまま簡易的にポケットアルバムに挟んだもの、はたまた小袋に入れたままのもの、ざっと数百枚の写真が現れた。


出てきた写真は、東京での暮らしを謳歌していた大学生から結婚するまでの約10年間のものだ。


あの頃の自分、もはや直視することができなかった。


肉に生き、わがたましいは死んでいた。



思えば、迷える子羊だったのだろう。


翼を得た鳥のように自由だと思っていた。しかし、本当は翼を奪われ欲望の奴隷になっていた。


刹那主義、快楽主義に溺れていた。


何冊か束になったポケットアルバムがあった。開いてみると、北海道にひとりで旅をしたときの写真であった。


カーフェリーで小樽に降り立ち、そこから日本海稚内までひた走り、オホーツク海を回って旭川に入った。そこから今度は東に向かい、阿寒湖、摩周湖を経由して、日本最東端の納沙布岬へ。朝日を拝んだ。


それから、釧路、帯広、富良野、札幌、函館と回って旅を終えた。帰りはひたすら陸路を走った。


実はこの旅、三浦綾子の小説の舞台を訪ねることを目的にしていた。


読みながら泣けてしょうがなかった「塩狩峠」を皮切りに、三浦ワールドにドップリ浸かってしまった。そして、ある日「そうだ、北海道に行こう」と思い立ち、旅に出たのだった。


この旅から戻り、すぐに地元のキリスト教会を訪ねた。そこで初めて聖書に触れた。


1つ前の7節に「私のたましいよ おまえの全き憩いに戻れ。主がおまえに良くしてくださったのだから」とある。


神は、死んだたましいに命を吹き込み、私に良くしてくださった。



思えば、順風満帆な人生などない。


私のようなさほど取り柄のない人間でさえ、自暴自棄になったり、泣いたり躓いたりする。


もし神を知らなければ、私のたましいは今も彷徨っていたに違いない。もし聖書に触れていなければ、生きる指針を得ることはなかったに違いない。


続く9節から最後の19節までを黙読したい。


 

9 私は、生ける者の地で、主の御前を歩きます。


10 私は信じています。まことに私は語ります。私は大いに苦しんでいました。


11 この私は恐れうろたえて言いました。「人は誰でも偽りを言う」と。


12 主が私に良くしてくださったすべてのことに対し、私は主に何と応えたらよいのでしょう。


13 私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めます。


14 私は自分の誓いを主に果たします。御民すべての目の前で。


15 主の聖徒たちの死は、主の目に尊い
 

16 ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解いてくださいました。


17 私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。
 

18 私は自分の誓いを主に果たします。御民すべての目の前で。


19 主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真ん中で。ハレルヤ。


ハレルヤ!

苦しいときこそ

f:id:songchi0326:20200521003704j:image

彼がわたしを呼び求めれば
わたしは彼に答える。
わたしは苦しみのときに彼とともにいて
彼を救い、彼に誉れを与える。


詩篇 91:15


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


詩篇は全部で150篇ある。


1日1篇ずつ進めば5か月で読破できる。3篇ずつなら50日、5篇ずつなら1か月。単純計算ならそうなる。


1日30分でも時間を取って、詩篇を読もうとすれば1か月でぜんぶ読めるよ! と、知り合いのアメリカ人に勧められたのはずいぶん前のこと。


重い腰はなかなか上がらなかったが、長引く在宅勤務と子どもの休校で、毎日家族と過ごす時間がたっぷり取れることになり、ならばいざ取り組むか! と、決意した。


中には1篇がとても長いものもあるし、毎日読む時間を取れるとも限らないから、そうそう計画通りにはいかない。


自分一人でやろうとすると、このように、できない理由を並べて易きに流れる私であるが、家族と一緒であれば、もしかしたら読破できるのではないか、そう勇気付けられているのである。


始めてみると、これがなかなか楽しい。


もちろん言葉が難しかったり、理解するのに難解過ぎる箇所もある。それでも、1節ずつ交替しながら輪読していくと、そこには聖霊の導きが感じられ、空気は清められ、心が整えられていくのがわかる。


そうして今週、折り返し地点を過ぎた。



今回取り上げた91篇は、3つの理由で心に留まった。


まずは「疫病」という言葉が三度出てくること。


これまで、聖書で疫病やえやみといった言葉に出くわしても、自分事とは思えず、遠いどこかのことのように思っていた。


しかし、今はまったくそうではなくなった。


次に、91篇には、サタンがイエスを惑わすときに使ったセリフがあること。


あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』
と書いてあるから。(マタイ 4:5-6)


サタンが、〜と書いてあると言って引用したのが、詩篇91の11-12節である。


サタンは神に敵対しながら、その実、神の言葉を誦じている。神の言葉を曲解して、私たちを惑わす存在である。


私たちも聖書を曲解しないように、悪用しないように、充分気をつけなければならない。



そして、最後が14-16節。これは、メシア預言である。


わたしが「神」、彼は「イエス」なのだから、『彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い、彼に誉れを与える』というのは、そのまま父なる神と、子なるイエスとの関係を示している。


言葉そのままに受け取ればよい。


しかし私たちは、「彼」の神への絶対的な信頼や、「わたし」のイエスへの無条件の愛を、現実の生活に適用することができる。


苦しいときは、神を呼び求める。


答えはすぐには得られないかもしれない。それでも神は聞いてくださる。救いのプロセスの中に、私たちを置いてくださる。


この信頼こそ、私たちの糧であり、力の源泉である。苦しみの中に、喜びの種が撒かれているのだ。


辛いときこそ種を撒こう。

老いてなお

f:id:songchi0326:20200514134022j:image

年老いたときも、私を見放さないでください。私の力が衰え果てても、見捨てないでください。


詩篇71:9


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


今年の連休は、家の中の整理整頓に勤しんだ。


これまでずっと手が付けられないままでいたクローゼットや、そこにある開かずの段ボール。


なかでも、アルバムや古い写真を捌くのに、最も時間を費やした。いや、時間だけでなく、精神的な負担をも強いられた。


約20年分の写真が数百枚はあったろうか、それらをいっきに廃棄した。


見たくない自分がそこにはいた。神を知る前の、刹那的に生きていた傍若無人な自分の姿を見るのは辛い。


その一方で、目に留まったのは高齢の方々の姿。20年前に通っていた教会で聖書の学びをしてくれた年老いた牧師。また、天に召された祖母たち。


そのとき浮かんだのが今日の聖句。



コロナによる休校が長引いていることで、子どもたちのことを気にして、心と身体の健康のために祈ってきた。


その一方で、老年の方たちのことは全く想像してこなかった。


祈りの対象にしてこなかった。


思うように買い物に行ったりできず、病院に行くのも恐る恐るだったり、日々ニュースを見て不安に駆られている方はたくさんいらっしゃるだろう。


先日、母の日があったが、帰省できないので、プレゼントを送ったり電話で話したりした。


やはり健康上の不安が大きい。


祈らねば。



年を重ねれば、力は衰える。判断も滞るし、行動も鈍化する。


できることよりできないことが増え、否が応でも自力から他力になる。他人に頼らなければ生きていけなくなる。


詩篇の著者ダビデ王もまた、老齢になり、心と身体の衰えを実感しているのだろう。


私を見放さないでください、見捨てないでください。


このダビデの祈りは、叫びであったか? それともささやきであったか? はたまた絞り出すように喘いで言ったのか?


しかし、ダビデの信仰は消えることはなかった。


続く箇所を読んでいくと
「私はなおも告げ知らせます。あなたの力を世に。あなたの大能のみわざを後に来るすべての者に」


とある。


信仰は消えるより、むしろ強められている。


神の素晴らしさをなおも伝えるという確信。老いてなお、伝道の精神がいささか衰えることはない。


かくありたい。

苦難の祈り

f:id:songchi0326:20200506115730j:image

苦難の日にわたしを呼び求めよ。
わたしはあなたを助け出し
あなたはわたしをあがめる。


詩篇50:15


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


5月に入った。


GWではあるが、毎日毎日ひたすら自宅に居続ける。


そして、緊急事態宣言が延長になった。


観ないようにしているTVをたまにつけてみれば、暗くなるニュースばかり。さりとて、バラエティで気を紛らす気分でもない。


TVはつけずとも、ネットニュースを見てしまえば同じこと。日本の状況、世界の状況を知ってはため息が出る。


世の中の状況を知るには、娘がとっている週刊の中高生新聞が一番いい。簡潔で分かりやすい解説、それでいて知りたいことが幅広く載っている。


小学生の頃に読んでいたコドモ新聞と違って、大人でも十分学ぶことができる。もちろん、子どもの進路を考える材料もたくさん載っている。


このようにニューストピックを通して、親子の対話が生まれるのが新聞のいいところだと思う。問いかけたり、じっくり考えたり、そうした繋がりが健全な知性を育む。


Stay Home
Stay Healthy
Stay Connected


牧師に教えてもらった、三密ならぬ3Stay、まったくその通りである。



辛いことや苦しいことに直面したとき、私たちはどうなるだろうか。 


その理由を他人の求める場合と、自分に責任を負わせる場合とがあろう。


後者の方が傷が深い。


辛さや苦しみに目を向け、そこから抜け出すことができなくなる。自責したり、自戒したりする。怒りに我を忘れたり、生きる気力を失くしたりする。


出口のないトンネル、底のない落とし穴。そんな状態に陥ることもある。


過ぎてみれば、あのときはどうして周りが見えていなかったのかと、笑って振り返れたりするものだが、渦中にいるときは分からない。



神さまは「苦難の日にわたしを呼び求めよ!」と声を掛けてくれる。


苦難の日に、というよりもむしろ、苦難の日にこそ、と読むのがいい。


辛いときや苦しいときにこそ、神を呼び求めよ!と。


ヘルプミー、神さま助けてください、そう祈るのである。


このような短く簡便な祈りは正しい祈りではないと言われるかもしれない。


しかし、祈りの形は自由である。大切なのはその心であるから。語りかけるように囁く祈りもあるだろうし、黙想して心に響くように祈るのもありだろう。


長々と言葉を並べる必要はない。シンプルな言葉であっても、そこに心があればよい。


呼び求めよ!と言われた神は、こう約束する。


「わたしはあなたを助け出し、あなたはわたしをあがめる」と。


苦しみから助け出してくださる方は、神ただ一人である。その神を私は礼拝する。


最後に、モーセの勇ましい祈り。


主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。(民数記10:35)

Psalm23

f:id:songchi0326:20200429153108j:image

まことに私のいのちの日の限り、慈しみと恵みがわたしを追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。


詩篇23:6


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


家族で詩篇の朗読を始めた。


詩篇は全部で150篇あるから、1日1つだと150日、2つだと75日、3つだと50日。1ヶ月で読破したい…、ということになると、1日5つのペースになる。


1つが短いのもあれば、恐ろしく長いのもある。中学生の娘にとっては、難しい表現も多い。それでも、毎日の習慣として始めてみた。


これが実によい。


読む前に短く祈る。それから1節ずつ輪読していく。そうしてしばらくすると、家族を包む空気が聖なる雰囲気で満ちてくるのを感じる。


見えない聖霊の力が働いている。


この連休は外出の予定もないから、思ったよりいいペースで進めるかもしれない。



詩篇23篇は、150個の詩篇の中で最も有名なものの1つだ。


主は私の羊飼い
私は乏しいことがありません
主は私を緑の牧場に伏させ
憩いの水際に伴われます
主は私のたましいを生き返らせ
御名のゆえに私を義の道に導かれます
たとえ死の陰の谷を歩むとしても
私はわざわいを恐れません
あなたがともにおられますから
あなたのむちとあなたの杖
それが私の慰めです
私の敵をよそに
あなたは私の前に食卓を整え
頭に香油を注いでくださいます
私の杯はあふれています
まことに私のいのちの日の限り
慈しみと恵みが私を追って来るでしょう
私はいつまでも主の家に住まいます



この23篇が有名なのは、絵画的であることも理由だろう。


神との関係を羊と羊飼いに例え、鞭と杖によって慰められると言う。鞭や杖を鳴らす音は、私たちの聴覚を刺激する。


牧場や水際といった穏やかで平和な描写と、それに反して死や陰、災いといった暗く陰鬱な描写。この対比は視覚を刺激する。


食卓から漂う匂い、オリーブ油やブドウ酒の匂いは嗅覚や触覚を刺激する。


愛されているのも分かる。


足りないものは何もない、恐れるものは何もない。ダビデの神への深い信頼が伝わってくる。


その信頼に私たちも自らを重ね、神の慈しみと恵みとに人生を委ねたい。


★主はわが羊飼い
https://youtu.be/ry1jQoFvxyk