聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

新しい自分

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ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。


コリント人への手紙 第二 5:17


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新しい年の最初の聖句。


詩篇からダビデの言葉にしようか、新約からパウロにしようか迷ったが、力強いパウロを選んだ。


先行きが見えにくい、不安や心配で心が押し潰されそうなときだからこそ、パウロが語った数々の言葉が響く。


幾多の困難を乗り越え、どんなときもキリストにあって希望を失うことなく、信仰と愛に生きたパウロの言葉に、現代の私たちは励まされる。


すべてが新しくなった!


これは語ったというより、宣言に近いだろう。


いったい何が古くて、何が新しいのだろう。知っておきたい。



文脈から理解するために、5章の15-16節に少し遡ってみる。


5:15
キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。


5:16
ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。


この2箇所から、古いのは、自分のために(このことを「肉に従って」と表現している)生きることだと分かる。


逆に新しいのは、キリストのために生きること、である。


自分のために死んで甦った方、それはまさしくイエスキリスト。十字架につけられ死んだが甦ったと伝えられている、ではなく、そしてそのことが単なる刑罰であった、のでもない。


歴史的な理解に留まらず、キリストの死と復活が、自分のためなんだということを受け入れられるかどうか。


そこにかかっている。



2001年の4月に洗礼を授かりクリスチャンとなった私は、今年で20周年を迎える。


今になって分かる。


古い自分と新しい自分。肉に従って生きていた自分。何もかも自分中心でないと気が済まず、人の忠告や勧告には耳を貸さず、何でも思い通りにいくものだと思っていた。


そうじゃないなと思って、夢も希望もなくなって逃げるように実家に帰りニート暮らしをしていたのが26とか27の頃。


そのとき私は神を知った。


もう少し正しく吐露すると、この世に神なんてものがいることを知った。


知って信じたからと言って、劇的に何かが変わったという感じはない。不真面目さも自分勝手さもそのまま残っている気がする。


けれど、この20年を振り返ると、あぁたしかに自分は新しくされていたんだなと思う。


だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者であると宣言したパウロのこの言葉が、だから今の私には実感として分かる。


The old has gone, the new is here!

創られた私たち

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あなたの指のわざであるあなたの天
あなたが整えられた月や星を見るに
人とは何ものなのでしょう。
あなたが心に留められるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。
あなたが顧みてくださるとは。


詩篇 8:3-4


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今年の夏だったか秋だったか定かでないが、NHKの「地球ドラマチック」で、ハッブル宇宙望遠鏡が取り上げれていた。


詩篇のこのみことばを読んだとき、そのことを思い出した。


ハッブルのことは、恥ずかしながらその番組を観るまで知らなかった。しかし、番組で紹介される画像を観るうちにすっかり魅せられた。


単に、美しい!というレベルではなく、驚異的というか、信じられないような美しさであった。言葉ではうまく伝えられないので、ナショナルジオグラフィックの画像リンクを。


ここには厳選された50枚の宇宙の画像がある。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/111600040/



創世記の最初の記述を読むと、神がはじめに天と地を創造された、とある。


創造主である神にとっては、この地球も宇宙もすべて被造物である。


地球に存在する私たち人類もまた、神の被造物である。


もちろん「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された(創世記 1:27)」とあるように、被造物の中でも人類は、特別な使命を与えられているのだが。


神は、壮大な宇宙を創造し、地球をも創られた。地球の管理者として創られた人類は、管理者ゆえか、最も小さき者そして弱き者として存在している。


被造物としての私たちが、空を見上げて、神の被造物である天、月や星を見て感動するのは、だから当然のことである。



悩みがあったり、不安や恐れを抱えているとき、空を見上げてごらん、とよく言う。


自分の存在のちっぽけさに気付いて、自分の悩みや不安が些細であることに気付いて、そうして生きる力が湧いてくるって。


私たちは誰に言われるでもなく、ちゃんと分かっている。


ダビデが空を見上げて、人とはいったい何ものなのでしょうと言ったときの思いは、私たち誰もが持ち合わせているものだろう。


小さき者、弱き者だからこそ、私たちは神からさまざまな特権を受けている。それがこのこと、自分の存在を創造主である神との対比において理解すること、である。


神は私たちを心に留め、顧みてくださる。私たちは神に向き合い、神の想いそして愛に触れる。

 

 

 


…祈ろう。


私たちを愛してやまない神よ、小さく弱い私たちを心に留め、顧みてくださりありがとうございます。私たちは無条件で愛されていても、その愛に背き、愛するよりも愛されることを求めてしまいます。それでも私たちはあなたに従い、信頼しています。どうか神よ、私たちを慰め、救いの道を示してください。この世を覆う不安や恐れを取り除き、来るべき新しい年を希望と平和で満たしてください。イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。

羊飼いの信仰

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いと高き所に栄光が、神にあるように。
地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように。

ルカの福音書 2:14


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この賛美は誰が誰に言ったのか?

ルカの福音書2章を追いかけてみよう。

「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜 番をしていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らし たので、彼らは非常に恐れた。

御使いは彼らに言った。

『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えら れる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたが たのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリスト です』(中略)

すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れ て、神を賛美した」

そして、今日の聖句「いと高き所に栄光が、神にあるように。地の 上に平和が、御心にかなう人々にあるように」と続く。

私はこれまで、この賛美は御使い、つまり天使が言ったものと思っ ていたが、間違っていた。

天使は、イエスが誕生することと、 それが救い主(メシア=キリスト)であることを告げたのであって 、賛美をしたのは天の軍勢であった。

天の軍勢と言うと、なんだか物々しいが、お告げをした天使(マリ アやヨセフに告げたのと同じガブリエルかもしれない)とは別の天 使たちの集団のことだと思う。

年末といえば第九、特に1万人の第九をイメージするといい。あの コーラスのように、天使たちは神を賛美したのだ。

黙示録によると 、私たちは、終末時代にこの天使たちの大コーラスを聴くことがで きる。さぞ素晴らしいものだろう。

 

 

では、誰に対してかと言うと、これはハッキリ羊飼いと書いてある 。

さすがにこれは私でも間違えない。というか、子どもでも知っている。

ルーブル美術館所蔵の絵画を見てみよう。

「キリストの誕生を羊飼いに告げる天使たち」
https://sononism.com/sheperds

 

羊飼いは、当時の社会で最下層に位置付けられていた職業であった 。羊の夜番をしている羊飼いたちは、暗闇に現れた突然の光と天使 にさぞ驚いたであろう。

絵画からも「彼らは非常に恐れた」ことがありありと伝わってくる 。

この羊飼いたちは、当事者のマリアとヨセフ以外でイエス誕生のこ とを直接知らされた最初の人たちである。神があえて社会の最下層 にいる羊飼いたちを、救い主誕生の証人として選ばれたことに、 神の奥深さを感じる。

彼らは、最初は驚き、恐れ戸惑ったが、天使たちが去ったあと「さ あ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの 出来事を見届けて来よう」と、急いで出かけて行った。

 

 

私は、この羊飼いの素直で直情的な反応に心打たれる。

ストレートに天使の言葉を信じ、イエスの誕生を目の当たりにし、 声高らかに賛美する。どれほどの喜びに包まれていたことだろう。 仕事の辛さも吹き飛んでしまったに違いない。

信じることのすばらしさ、すぐに行動することのすばらしさを感じる。

そういえば、聖書では神を羊飼い、私たち人間を羊に例えることが ある。羊飼いの純真さは、汚れなき神のそれに通ずるものがある。

羊飼いの信仰に倣う、それはまさに神の性質に近づくことになる。

 

「羊飼いたちは、見聞きしたことが全て御使いの話の通りだったの で、神をあがめ、賛美しながら帰っていった」とあるように、 羊飼いの信仰に倣い、賛美の声を上げたい。

二千年前にこの世に来られたイエスキリストを覚えて賛美する。そ して再び来られることを待ち望んで、アドベントのいま、「主よ来 てください」と賛美する。

 

主よ、暗き世に光を照らしてください。

メリークリスマス!

 

望みを抱く

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望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。


ローマ人への手紙 12:12


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2020年も終わろうとしている。


1年前は今の世界を想像することはできなかった。局地的な感染病くらいの認識だったし、世界規模のパンデミックにまで至るとは思っていなかった。


3月には学校が一斉休校になり、子どもたちの自由が奪われた。その後、緊急事態宣言が発令となり、社会のシステムそのものがいっきに冷え込んだ。


在宅勤務がメインになり、リモート会議は当たり前になった。営業活動は電話やMailに加え、ZoomやMeetでの商談と、これまで経験したことのない動き方を強いられた。


夏が来たら落ち着くと思っていたが、事実いっとき小康状態になったりもしたが、秋になってまたぶり返し、そんな状況下でのGO TOもあったりで、冬には緊急事態宣言のときを超える感染者数を日々記録するようになった。


やり場のない怒りや悲しみを抱えつつ毎日を過ごしている。


人はどうしたらいいか分からないとき、アタマ真っ白の思考停止に陥るか、全知全能の神にすがるか、だろうと思う。


思考停止とは何もしないことではなく、思考にフタをしてただ目の前のことに没頭することでもある。その結果、心や身体に異変を来たす危険を孕んでいる。


一方、神を信じていなくても、神にすがるように、祈るような気持ちでいる人もたくさんいるだろう。今日取り上げるローマ人への手紙12章は、そんな私たちへの励ましになる。



ローマ12章の冒頭を少し引用する。


12:1 ですから、兄弟たち、私は神の憐れみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたに相応しい礼拝です。


12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。


12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。


与えられた恵み。


この時代、この場所、この家族、この仕事、この身体、命…すべて、神が最も相応しいとして分け与えてくださった恵み。


これらの何ひとつとして、自分の意思や力で得られるものはない。無条件に与えられる、神からの一方的な恵み。


当たり前のように思って生きているが、ふと立ち止まって静まると、この恵みに気がつく。



当たり前だと思っていたことが崩れるとき、私たちは驚き、落胆し、怒ったり悲しんだりする。


常識が常識でなくなるのは恐ろしいことだ。


「世界は贈与でできている」という本を読んだ。この中で、常識が崩れることを小松左京のSFノベルを紐解き語っていた。コロナのいま読むと絵空事ではなくあり得そうな展開に、ゾッとする。


常識、つまり日常は、そうでなくなったときにその存在の大きさや大切さに気付く。例えば、定刻通りに来ない電車や欠品ばかりのコンビニの棚などが例示されていた。


このようなとき私たちは、今ないことに憤慨し他の誰かのせいでこうなったと捉えるか、今ないけど他の誰かがきっと元に戻してくれると捉えるか、どちらに立つか?


できることなら後者に立って、そしてできることなら世界を元に戻すための一員でいたいと願う。たとえ電車やトラックを運転できなくても、世界の安定を望み、祈ることはできるだろう。


望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。


こう言ったパウロは、人間の無限の可能性を信じていたに違いない。

豊かさへの応答

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キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。


コロサイ人への手紙 3:16


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前回、You have been enriched …の箇所では、richの動詞形であるenrichが、外面的、つまり経済的な豊かさよりも、内側の豊かさを表している、と書いた。


今回は、richの副詞形であるrichlyが含まれる箇所を取り上げることにした。


キリストによって豊かな者にされた私たちが、具体的にどのように応答すればよいのか、この聖句から学び取りたい。



たった一つの聖句からでも、得られる恵みはたくさんある。


3つに分解しよう。


まずは、豊かな者ととされた私たちは、キリストのことばを蓄えておく必要がある、ということ。


いや、蓄えるではなく、住む、だ。あえて、住むと表現するところがいい。ただ、キリストのことばを取り込むだけでなく、ことばが内住し、常に豊かさに溢れ、表情や行動が変えられていくことである。


次に、知恵を尽くして互いに教え、忠告し合うこと。


二番目のステップは、いささか難しい。なぜなら、自己完結できないからだ。教え合ったり、忠告し合ったりするには、相手が必要である。


他人に教えたり、忠告したりするには、愛と思いやりがなければならない。愛と思いやり抜きに教えたり忠告したりすると、反発される。妬まれたり迷惑がられたりする。



最後は、感謝をもって心から神に向かって歌うこと、である。


私は教会でプレイズの奉仕をしている。プレイズとは賛美のことで、高校生のときからバントでドラムをプレイしてきた私は、礼拝で賛美するときに壇上でドラムを叩いている。


得意のハードロックやヘビメタを叩くのではなく、神さまを褒め称える賛美を奏でている。自分でも不思議な感じだ。


プレイズメンバーとして奉仕し始めた当初は、上手く演奏することを考えていた。皆が気持ちよく賛美できるように、ではなく、自分が失敗しないこと、格好よく叩くことに気持ちが向かっていた。


次第にそうではなく、礼拝参加者と一緒に賛美できるよう、心にゆとりをもってできるようになった。


しかし、それが最善のレベルではない。奏楽とは神への賛美である。このことがコアにあるのがよい。


私のためではなく、皆のためでもなく、ただ神のために。


感謝をもって心から神に向かって捧げよう。

 

豊かな者

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あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。


コリント人への手紙 第一  1:5


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この励まし!


パウロギリシアのコリントにある教会の信者に宛てて書いた手紙の冒頭である。


コリント教会への手紙は、不信仰や不道徳に陥った信者を叱咤し、悔い改めを促すことが目的であるが、その手紙の冒頭はパウロの愛、温かな眼差しが注がれている。


パウロの愛をたくさん注がれていてもなお、堕落した生き方を選択したコリントの人たち。それは、現代の私たちにも通ずるものがある。


愛されても、その愛に気付かない。愛されても、その愛をないがしろにする。愛されても、その愛を踏みにじる。


愛が叫ばれる現代は、それだけ愛が必要であることの裏返しであると思う。



そもそも私たちは、生まれながらにして罪を背負っている存在である。


罪の報酬は死である。人は誰でも必ず死ぬ。つまり、人はみな罪を負っている。


と、三段論法で言うとそうなる。


いやいや、人サマに迷惑かけるような悪いことは何もしていないとか、これまで罪を犯したことなんてないとか、反発する気持ちもわかる。


かつての私がそうだったから。


しかし、聖書を読み信仰を告白し、クリスチャンとして生きる今、自分は罪を犯していないと公言することがどれほど恥ずべきことかわかる。


誰もが罪人と言うと、表現がキツイかもしれないが、誰もがみな罪の性質を持っていると言えば、それもそうだと納得できるかもしれない。


自分の中にある罪の性質を認識せずして、救われることはない。


贖罪の前に、まず認罪があるのだ。



認罪しているから、救われたことに感謝できる。


愛されていることに喜びを感じる。


パウロの励ましがとてもいいのは、私たちは豊かな者とされました、と完了形で書かれていること。


英語で読んでみると、You have been enriched …とあり、やはり完了形であった。


完了形ということは、英語の授業で習った継続用法だから、豊かな者とされて、それが今もずっと続いている、ということになる。


豊かなを表すenrichedは、外面的、つまり経済的な豊かさよりも、内側の豊かさを表している。


一度救われたら、その救いからこぼれることはないと言うが、それはずっと豊かな者として継続した恵みを受けているからだろう。


私たちは言葉において、知識において、あらゆる点において、キリストにあって豊かな者とされている。


この大いなる祝福に、1人でも多くの人に加わってほしい。アドベントに入り、一層強く思わされる。

聞くことから

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ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。


ローマ人への手紙 10:17


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信仰は聞くことから始まる。


ふむ、そうだ。


しかし、聞くためには話す人、つまり伝道してくれる人がいなければならない。伝道する人は、神に遣わされ(招かれ)なければならない。


そう思うと、私たちがキリストのことばを聞いて信じるには、そのために働く人が不可欠ということになる。


遣わされる→伝道する→聞く、の順である。


聞くから信じることができる。そして、信じるから、祈り呼び求めることができる。


聞く→信じる→呼び求める、の順である。


この一直線の流れの真ん中に「聞く」ことが据えられている。聞くことがいかに重要であるか、ということだ。



と、偉そうにまとめたが、このことは今回の聖句のすぐ手前にちゃんと書かれていて、私はそれを書き直したに過ぎない。


しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。(ローマ10:14-15)


と。


聞いて理解を深め、信仰を確かなものにする。


そのためにも私が愛聴している「聴くドラマ聖書」アプリは必須である。
https://graceandmercy.or.jp/


営業車で長距離を運転することが多いから、流しっぱなしでドラマバイブルが溢れてくる。電車通勤ならスマホで聴いているうちに1時間くらいすぐだ。



私の信仰の原点は、三浦綾子である。


彼女の「塩狩峠」を読んで号泣し、乗客のために自分の命を捨てる、まさにイエスキリストのような生き方をした日本人がいたことに驚きと感銘を受け、その底流にキリスト教があったことを知った。


それから三浦文学にドップリ浸かり、文庫を買い揃え、小説の舞台を訪ねる北海道ひとり旅をした20代後半のころ。


そのときは読むことしかできなかったが、今ではオーディオブックという便利なシロモノがある。


https://www.hyouten.com/audio-library


コレで心置きなく三浦ワールドに入り込める。


小説に込められた著者の祈りを感じながら、自らの生き方を顧み、信仰を深めることができる。