少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
第二コリント9:6
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以前、イエスのたとえ話から「種まく人はみことばをまく」を取り上げた。
種まく人は神ご自身、種とはみことば、そして種がまかれる土地が私たちであると、そんな適用であった。
しかし、そこから一歩踏み込んで、自分が種をまく側だとしたら? まで考えてみた。
視点を変えることで、みことばを素直に受け取ることの大切さと、積極的に与えることの大切さに気付くことができた。
そんな流れから、種まく人の話を続けてみようと思う。今回はまく側に向けた聖句を取り上げる。
この聖句は、パウロがコリントにある教会の信徒に向けて、教会での各々の奉仕について奨励している箇所である。
対句になっているのが理解を助けてくれる。でも、英語の方が分かりやすいかもしれない。
Whoever sows sparingly will also reap sparingly, and whoever sows bountifully will also reap bountifully.
sparinglyは、節約してケチケチしていている状態。bountifullyは、潤沢に惜しみなく与える状態。このように、日本語と比べると、ダイナミックなニュアンスの違いを味わうことができる。
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文脈では、献金について述べていて、つまりはケチケチせずに惜しみなく献げなさい、ということになる。
直接的に言えば、ここでの種とは金銭のことである。
もちろん今でも私たちクリスチャンは献金を献げるし、その金額は強制されるものではなく、それぞれが心で決めた通りに行なっている。
しかし、種についてはもっと広義に捉えてもよい。
金銭に留まらず、物資を捧げることもありだし、目には見えない時間なり労力なりも然り。もっと言うと、愛とか笑顔とか思いやりとか、そのような類の捧げ方もあるだろう。
なかでもクリスチャンにとって、目に見えない最高の捧げものは、お祈りである。祈りを伴わなければ、目に見える金銭にも物資にも、愛や思いやりがない。
種まく人には祈りが欠かせない、ということだ。
そういえば、ミレーの「種まく人」も、帽子に隠れてよく見えないが、半開きになった口元を見るに、祈っているのではないか? と思わされる。
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営業の仕事は、お客さんの困ったことを解決することである。もしくは、困るであろうことを事前に予知して手を打っておくことである。
そのために営業マンは、せっせと種をまく。
ゴールは売上目標の達成ではなく、お客さんの問題解決である。問題解決の先に、結果として売上目標の達成がある、そう思う。
だから、私たちがまく種は愛や思いやりを含んだものでなければならない。でなければ、芽は出ない。まき続けても、水や栄養をどんどん与えても芽は出ない。芽が出なければ、刈り取りなどできない。
どんどんまいて、どんどん刈り取ろう。
「あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです」
そうだ。
豊かな刈り取りの先にあるゴールは、神への感謝なんだ。