聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

生きている者の神

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神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。


ルカの福音書 20:38


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盆休みに帰省した折、母教会、つまり私が洗礼を授かった教会の礼拝に出席した。


今から20年前、聖書が読みたくて、神さまが知りたくて、電話帳でキリスト教会を探して、そうして見つけた教会。


恐る恐る扉を開けたこと、思わぬ歓待を受けたこと、初めて歌った賛美歌に涙が溢れたこと、肝心の聖書のことはちんぷんかんぷんでまるで理解できなかったこと、礼拝後に食べたカレーライスのこと、今でもありありと思い出せる。


何人かの方は天に召された。また何人かの方は腰が曲がったり、杖をついたりしていた。あの頃、まだ幼かった子どもたちは高校生や大学生になっていた。


その礼拝で語られたのが、復活のことである。


復活を信じないサドカイ派の祭司とイエスとの問答を通して、神は死んだ者のためでなく、生きている者のためにあることを学んだ。



サドカイ人が問うた内容はこうだ。


・7人の兄弟の長男が子どもを残すことなく死んだ。
・残された妻は、モーセの律法に従って次男に嫁いだ。
・次男も子どもを残さず死んだ。
・三男も同じく死に、結果7人とも同じようにして、子どもを残さずに死んだ。
・その女も死んだ。
・復活のときに、その女はだれの妻になるのか。


天国で1人の女を巡って兄弟喧嘩でもするのか? だから、復活なんてあり得ないんだ、と主張した。屁理屈にしか聞こえないが、彼らは大真面目に話したのだろう。


対するイエスの返答はこうだ。


・この世ではめとったり、とついだりする。
・死人の中から復活した人たちは、めとることも、とつぐこともありません。
・彼らはもう死ぬことができない。
・彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子どもである。


ともすれば、イエスが議論をはぐらかしたような感じがする。が、そうではなく、そもそもの捉え方が異なるのだ。


この世と天国が繋がっていて、この世の常識が天国でも通用すると認識しているサドカイ人に対し、イエスは、この世と天国は全く違うものとして示している。


復活した体をもつ者はもはや死もなく、結婚もない。キリスト教が約束する永遠のいのちとは、まさにこのことを言うのである。



かつて母教会で復活の話を聞いたことがあっただろうか。聞いていても、聞き流していたかもしれない。今回、帰省ついでに久々に出席した礼拝で、復活の話を聞けたのは祝福であった。


旧約聖書で、神はモーセに対して自らを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と宣言している。これは、文字通り捉えるなら、死んだ者、つまり祖先の神である。


しかし、人が死んで滅びるとしたら、どうして神はわざわざ滅びた者の名を冠して自らを言い表すのだろうか。


それは、彼らはこの世で死んで、人の目には見えず滅んでしまったように思えるが、神に対しては生きた者とされているからである。


この世の死を超えたところに、神とともに生きるいのちがあるのだ。


やがて体をもって復活したとき、私たちは神の栄光とともに永遠に生きる。


神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。


私にとって、このことは希望である。