さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができた。さあ安心して、食べたり飲んだりして楽しめ。
ルカによる福音書12:19
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こんな言葉が聖書にあるのか!
ここだけ取り出すとそう思ってしまう。これは神の言葉でもイエスの言葉でも使徒の言葉でもなく、欲にまみれた人間の言葉だ。
これは、イエスのたとえ話の中での言葉であり、テーマは「貪欲に注意しなさい 〜人のいのちは財産にあるのではない〜」である。
ある金持ちが、自分の畑が豊作なのを見て、蓄えておく場所がないことを心配した。そこで彼は、今ある小さい蔵を壊し、もっと大きいのを建てて、穀物や財産をすべて蓄えようと考えた。
そのときのセリフなのだ。
このセリフ、聖書のリビングバイブル訳をみてみると、その欲深さがよく表れている。
「もう何も心配もいらないぞ。これから先何年分の食料がたっぷりあるんだ。のんびり楽しくやろう。さあ酒だ、女だ、歌だ!」
どうですか、このリアルな訳、もはや翻訳とは言えない。しかし、この金持ちが宴を催して、女を侍らし食べて飲んで歌っている場面がありありと目に浮かぶ。
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気になる続きを。
しかし、神は彼に言われた。「愚か者よ、おまえの命は今夜、取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」
あぁ無情。なぜに、神さまは大きな蔵を建てて祝宴を催したその夜に命を奪われるのか。
そんなもんだよ、それが現実だよと悟ることができればいいが、現実として、いま自分が持っているものを大切にしておきたい気持ちは確かにあるし、蔵を建てて安心している金持ちの気持ちも理解できる。
目に見える財産、金銭のみならず、例えば家や車、貴金属。演奏する人なら楽器、スポーツをする人なら用具、絵を描く人なら画材。PCやスマホの人もいるだろうし、靴や洋服の人もいるでしょう。
目に見えないものなら、地位とか名誉とか、人脈とか信頼とか、そういったものも財産と言えるでしょう。
そうしたものを大切にしておきたい気持ちはあるし、神さまはそれを否定してはいない。
肝心なのは、それらが偶像化してしまわないようにすること。自分を誇り財産に執着しないようにすること。
そこだと思う。
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人間って不思議なもので、財産がなければないことを嘆き悩み、あればあったで、どう蓄えようかどう使おうかと、また悩むもの。
どちらにせよ、執着していれば悩むのだ。執着すること、それが貪欲・貪りの源なのだろう。
こう書くと仏教みたいだし、宗教というより道徳や倫理的な話になる。
私たちクリスチャンは、神からこの世に派遣されているという内なる自覚と、祈りや賛美という武器を携えている。
財産は大切にしたらいい。その上で、目を天に上げていよう。心を開いていよう。悩みや嘆きも、祈りとして捧げよう。
たとえ話を語った後、イエスはこう言っている。正しい理解とあるべき姿を示してくれる。
・自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこの通りです。
・あなたがたのうちの誰が、心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことができますか。
・朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。
いつも売り上げを伸ばすことにアクセクしているから、ハッと立ち返らされるいい機会だった。