聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

買い取られた方

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あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。


コリント人への手紙 第一 6:20

 

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十字架の上でイエスが口にした7つの言葉のうち、その6番目は「完了した」である。


この「完了した」は元々「完済した」という意味で、借金をすべて返しきったときに金貸しが使う言葉だそうだ。


そう、イエスは「おまえたちの借金はチャラにした」と言われたのだ。


もちろんこれは比喩であって、専門的には、借金とは罪のこと、チャラにするとは贖うことを指すので「おまえたちの罪は贖った」、これが正しい解釈になる。


エスは私たちの罪を予め贖ってくださった。精算してくださった。



古来、ユダヤ教は神への生贄や穀物などを捧げてきた。それは、罪や汚れから守ってもらうために定めた律法に基づく決めゴトであり、守らない場合は厳罰に処せられた。


しかし、何度捧げても、罪が完全になくなることはなく、ただ一時的に罪を覆うだけであった。だから、何度も何度も捧げ続ける必要があった。


わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア6:6)


しかし神は無情にも、生贄は喜ばないと言われた。神が喜ぶのは生贄という目に見える捧げ物ではなく、そこに伴う心であった。


律法に従うことが、形式主義を招いていたのだろう。


思えば神は、人類を創造されたときからいつも同じスタンスであった。カインとアベルのことを思い出す。


創世記4章を引用しよう。


「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た、主はアベルとそのささげ物とに目を留められた」


「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた」


「そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたは正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである』」



今日掲げた聖句に戻る。


エスは生きた捧げ物として、私たち人間の罪を完全にチャラにするために自ら十字架に掛かった。


このただ一度の捧げ物によって、もはや生贄を捧げ続ける必要もなく、イエスを信じる信仰によってのみ私たちは救われることになった。


私たちはイエスによって罪を贖っていただいたのだから、もはや罪の奴隷になるのではなく、神の素晴らしさを自らの身体をもって現したい。


罪の性質を自覚しながらも、罪の誘惑に陥らないように。聖なる神の清さで、新しくされよう。


私たちは神の作品。神の所有物。造り主であり持ち主ある神をほめよう。


「人はうわべを見るが、主は心を見る」


心を込めて。