愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です。
ヨハネの手紙 第三 1:11
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
自ら望んで悪人になりたい人などいない。誰しも善人でいたいと思うだろう。
それでも、悲しいかな、人は罪の性質を負っているから、善人でいたいと思っていても悪人になる可能性を常に秘めている。
善と悪。それは、神に対する信頼と謙遜に左右される。
各地に広がったキリスト教会の様子を伝え聞いていた使徒ヨハネは、神に倣う人たちのことを喜ぶ一方で、神に逆らい悪に倣う人たちのことを悲しみ憤った。
わずか15節で綴られたこの書簡は、年老いた使徒ヨハネが、ガイオという個人に宛てて書いたものである。
ヨハネはこの短い手紙の中で、ガイオを神に倣う善人として賞賛している。
・愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。
・兄弟たちが、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。
・愛する者よ。あなたが、旅をしている兄弟たちのために行なっているいろいろなことは、真実な行ないです。
・あなたが神にふさわしいし方で、彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それは立派なことです。
このように、信徒たちを物心両面からサポートをするガイオを、ヨハネは誇らしく思い、喜んでいる。
*
そのガイオに対し、ある人物について警告するよう伝えた。その男はデオテレペスと言う。
・彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。
・彼のしている行為を取り上げるつもりです。
・彼は意地悪いことばで私たちを罵り、それでも飽きたらずに、兄弟たちを受け入れようとしません。
・そればかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです。
自分が一番でなければ気が済まない。自分の思い通りに支配したい。気に食わない者は者は排除する。
悪から生じる自己中心に対し、ヨハネはこのような強い口調で、批判している。
*
短い手紙の中に、善と悪が見事なコントラストで描かれている。
ヨハネは若かりし頃、雷の子と言われていた。誰が一番偉いのか、弟子たちで争ってイエスに諌められたこともある。
そんなヨハネは晩年、愛の人として福音書や黙示録を記すまでになった。
つまり、ヨハネは、ガイオ的な善性もデオテレペス的な悪性も体験した上で、神の側に立つことを奨励しているのである。
もちろん、この両面性は私たちの中にもある。神を知りつつも神を一番とせず、神を信じつつも自分中心に陥る愚かな存在である。
だからこそ、悪を憎み善を愛するよう求めたい。神に根差し、神に信頼し、神に従う者でありたい。
幸いかな、私がそうありたいと願うより前に、神が望んでおられる。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださっているのだ。愛は神由来なのだ。