主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせる。
主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
詩篇19:8
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国語の授業で詩歌を扱うと、たいてい表現技法について学ぶ。
倒置法、体言止め、直喩と暗喩、擬人法、反復、押韻などさまざまある。
ヘブル語の詩もこうした表現法、いわゆる修辞技法がある。
今日取り上げる聖句もそう。ここでは、対句法が用いられている。
主の戒めの正しさ→人の心が喜ぶ
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主の仰せの清さ→人の目が明るくなる
このように、神の偉大さと、神が私たちに与える恵みが、言葉を変えて併記される。
畳み掛けるように迫ってくる、対句法の効果である。
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日本人なら、七五調がしっくりくるだろう。
この聖句を我流で七五調で整えてみる。
主のみおしえは正しくて、心に喜び溢れ出す。
主の言いつけは清らかで、瞳はひかり輝けり。
うん、最後が古文みたいになったが、七五調にすると口にしたときのリズムがいい。
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それはさておき、この聖句はよく読むと、神の愛ゆえの厳しさを感じることができる。
まるで、子を想う父親のような愛を感じる。
戒めや命令というと、そこから想起できるのは、服従や厳格といった硬くて恐ろしいイメージである。
しかし、神の戒めは正しいから、私たちの心が喜ぶ、と言われると、絶対的で揺るがない神の厳しさの底に流れる、神の赦しや無条件の愛を感じる。
また、神の命令は清らかだから、私たちの目が輝く、と言われると、不安や心配、悲しみや苦しみで濁ってしまった私たちの目に光が差し込む。希望を与えてくれる。
こうして、不完全で移ろいやすい私たちを、神は正しく導き、愛と赦しをもって養ってくださる。
神とは、すなわち愛。
見返りを求めない無条件で一方的な愛。
私たちは誰もがこの愛を受ける資格がある。
求めよう。