外に出て、山の上で主の前に立て。
第一列王記 19:11a
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望んでいたことが叶わなくて、隠れてしまいたいときがある。
思い通りにいかなくて、どこか遠いところに行ってしまいたいときがある。
でもしばらくして、そのときのことを思い返してみると、案外、自分の力を過信していたと気付かされるものだ。
どうして私がこんな目に遭わねばならないのかと、落胆したり、悲観したり、絶望したりする。
望みが叶わないことや思いが通らないことを憂うとき、そこには、自分の望みは叶うはずだ、自分の思いは通るはずだという、自惚れ、つまり自己中心の心が潜んでいる。
だから、それが達成できないと、いても立ってもいられなくなる。
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ここで詳しくは記さないが、この対決は映画にでもしたら、CGを駆使して相当迫力のあるシーンになるだろう。なにしろ、一瞬で雄牛が燃え尽きてしまうのだから。
戦いに見事勝ったエリヤは、これで自分の使命は果たした、もう大丈夫だろうと安心した。しかし、敵の親玉イゼベル王女は「おのれエリヤめ、八つ裂きにしてくれるわ!」と逆上してしまった。
恐れをなしたエリヤは150キロ近くを走り抜け、イスラエルの南の国境まで来た。そして、木の下に身を横たえ「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」と、死を願った。
しかし、神はエリヤを捨て置かず、食料を与え、彼を起き上がらせた。元気を得たエリヤは、神の示された山に行くのだが、山の上に立つのではなく、洞穴に隠れてしまった。
そこで神はエリヤに語った。外に出て、山の上で主の前に立て! と。
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エリヤの恐怖心や喪失感は相当のものだったようで、神に養われ癒されてもなお、山に立ったエリヤは神に申し開きをしている。
「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています」
頑張ったんです、やっつけたんです。なのに、殺されそうなんです、ひとりぼっちなんです、と。
ここに預言者エリヤの強さと同時に、人間らしさ、自我を見る。
神は、かすかな細い声で、エリヤが孤独ではないこと、後継者も仲間もいることを告げるた。次なる目標を見出したエリヤは、ようやく次の行動に移ることができた。
物事がうまくいかないとき、私たちは生きる気力を失くしたり、希望を見出せなかったりする。
しかし、神は、外へ出よ! 山に立て! と言う。
そこで私たちは、耳を澄まして神の語りかけを聞くのだ。神の声は、心に嵐や炎が満ちているときには聞こえてこない。神の声は、かすかで細いのだ。
どうか私たちが、神の声を聴きとることができるようにしてください。
★「山を見上げて」を賛美しましょう。
https://youtu.be/lg3r6GzSBs8
山を見上げて心に想う
私の助けはどこから来るの?
天地を創りすべておさめる
私の助けは救い主から
ハレルヤハレルヤ