すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、清くなった。
第二列王記 5:14b
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アラムの将軍ナアマンの話。
はじめてこの話を読んだとき、カラダが震え、涙が出た。そして、救われた。
奇跡によって身体が癒される話は聖書に多く記されているが、新約聖書でイエスが癒すことに注目が行きがちである。
しかし、旧約聖書にも癒された話はたくさんある。死人を蘇生させたエリヤ、ダビデのハープに癒されたサウル王、ヨブもヨナもルツもモーセもみんな癒されたし、救われた。
ナアマンは、イスラエルの敵国アラムの将軍だ。だから、イスラエルの預言者に助けを請うことなど、普通はしないはず。しかし、召し使いのイスラエル人の少女の勧めによって、敵国に出向いて、預言者エリシャに会った。
名前も記されていないような女の子が、主人の重い病気に気を留めなければ、この癒しの奇跡は行われなかった。こうした何気ない記述に、神の摂理を感じる。
思いがけずとか、あり得ないタイミングとか、そういうときは、たいてい見えざる神の計画が進んでいるものだ。
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ナアマンは重い皮膚病、ツァラアトという不治の病いに罹っていた。
エリシャの家に到着してからのシーンを再現してみよう。
・ナアマンはエリシャの家の入口に立った。
・エリシャは会おうとはせず、召し使いを通して「ヨルダン川で7回身を洗いなさい」と言った。
・ナアマンは怒って帰ろうとした。
・しかし家来に諭されて、ヨルダン川に行って7回身を浸した。
・するとからだは元通りになり、清くなった。
ここで、引っかかるポイントが3つある。
なぜエリシャは直接会わなかったのか? なぜナアマンは怒ったのか? そして、なぜナアマンの病が完治したのか? である。
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エリシャが会わなかったのは、ナアマンの信仰を試すためだったと思う。後にナアマンが怒ることからしても、将軍ナアマンは預言者が治して当然であると、多少の見下しがあったのだろう。
だから、エリシャは直接面会するのを避け、召し使いを通して「7回川に浸かること」を告げた。ナアマンが怒ったのは、エリシャが出てこなかったことに加え、川に入れという子ども騙しの命令だったことも理由だ。おそらく直接肌に触れて癒すことを、もしかしたら魔術的な癒しを想定していたかもしれない。
怒って帰ろうとするナアマンを、家来たちは食い止めた。そして、主人の治癒を願う彼らは、必死でナアマンを諫め、川に行くよう促した。
このストーリーでは、少女と家来が重要な働きをしている。彼らの働きがなければこの癒しは起きなかったからだ。さながら名脇役である。
ナアマンの癒しは、傲慢や怒りから、従順さや謙遜さを持つ者へと変えられていくプロセスである。そう、これはあらゆる信仰者が経るプロセスである。
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最後に追想…。
重度のアトピーに苛まれていた僕は生きる気力を失いつつあった。すがる思いで大阪の皮膚科の名医の診察を受けた。しかし彼は何の治療もせず、仕事を休んで南の島にでも行って海に浸かってこい!と告げた。僕は怒った。わざわざ大阪まで来たのにろくに診もせず海に行けと言うのか、と。それでも、それから仕事を休んで1週間沖縄に行って毎日海に浸かった。塩水が死ぬほど痛かった。ホテルのシーツには毎日たくさんの血が付いた。何の効果もないように思われたが、帰りの飛行機で身体に変化が起きていることを感じた。
あれから15年近くになる。今はもうあの頃のように悩み苦しむことはない。癒しのプロセスは救いのプロセスでもあった…。