しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。
マラキ4:2
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聖書には時折、絵画的な表現がある。
今日の聖句もその一つだ。
義の太陽とか翼に癒しとか子牛のように跳ねるとか。
この箇所だけを読み返すと、何やら喜びや希望に満ちたメッセージに思える。
旧約聖書の一番最後に収められている「マラキ書」、預言者マラキはここで何を言おうとしているのか、知りたくなる。
なぜなら、この後400年間、神は沈黙し、次の場面は、バプテスマのヨハネが荒野で「悔い改めよ、神の国は近づいた」までいっきに飛ぶからである。
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預言者は予言者ではない。
予め言うのではなく、神から預かった言葉を伝えること、それが預言者である。結果的に将来のことを予言することになるから、予言者でもあるが。
旧約聖書最後の預言者であるマラキも、それまでの数多の預言者と同じく、神から預かった言葉を忠実に述べた。
それは、終末予言であった。
今回の聖句4章2節のすぐ前の1節を見てみよう。
「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、藁となる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない」
3回も繰り返される「その日」っていったいどの日だ?
すぐ後ろの3節、そして5節には
「彼らは、わたしが事を行なう日に、あながたの足の下で灰となるからだ」
「見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」
とある。
その日とは、神が行なう大いなる恐ろしい日、のことであった。
このことは「患難期」と言われており、新約聖書の最後にあるヨハネの黙示録に詳しく記されている。
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まとめてみよう。
その日、神を信じる者は、太陽のように輝く神のもとで、翼の陰にかくまわれ、子牛のように喜び踊る。
一方、神を軽んじる者は、焼き尽くされ灰になる。
このような対比が描かれている。信じるか信じないかで、その日に裁きの内容が違うのだ。
では、信じない者には、もはや希望はないのか?
違う。神は、その日が来る前に預言者エリヤを遣わす、と言う。そのエリヤの役割は、4章6節に書いてある。
「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」
そう、これは400年後に現れるバプテスマのヨハネのことである。そして、子とは、主イエスキリストのことである。
神は預言者マラキを通して、旧約聖書の最後に、御子イエスの到来を伝えていたのだ。そして、その目的はサタンの呪いでこの世が滅ぼされることがないようにするためであった。
これが希望なのだ。
信じよう。明け渡そう。受け入れよう。その日が来る前に。