あなたがたは、忍耐することによって自分のいのちを勝ち取りなさい。
ルカ21:19
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男はじっと我慢の子。
小さい頃、よく父親に言われた。
熱めの湯に浸かるのが好きだった父と風呂に入ると30秒も耐えられなかったが、我慢せよと言われ、茹でダコのごとくに真っ赤になったものだ。
煮物のニンジンが苦手なのを知っている父は、肉じゃがや筑前煮が出るとニンジンを私の取り皿に大量に入れ、全部食べよと言われ、無理矢理に飲み込んだものだ。
そうだ、当時「おしん」が流行っていた。我慢は美徳だったのかもしれない。熱いお湯に浸かったり、嫌いなニンジンを飲み込んだりしながら、身を持って美徳とやらを体得してきたのだろうか。
それがあったからこそ、今の自分があるのだろうか。
…なんかそれって、ピンとこない。我慢と忍耐って同じように使うが、ちょっとニュアンスが違う。
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イエスが言った「忍耐によって自分のいのちを勝ち取る」の「忍耐」は、決して嫌なことをじっと我慢することではない。
我慢は、内向きで先の見えない行為であるのに対し、忍耐は、前向きで未来志向の行為なんだと思う。
現実には、我慢も忍耐も同じように用いることもあるが、気をつけねばならない。やせ我慢とは言うが、やせ忍耐とは言わない。
単なる我慢を、忍耐であると勘違いしてはならないし、我慢させているだけなのに、忍耐であると勘違いさせてもならない。
パウロは言う。「忍耐は希望を生む」と。我慢は希望につながらないが、忍耐は希望につながるのだ。
希望があるから忍耐する。
そうだ、おしんは我慢ではなく忍耐だったのか。希望があるから耐えることができたのか。そう理解する。
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クリスチャンの忍耐は、約束された希望があってこそ成り立つ。
いつも唱えている「使徒信条」には、「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの甦り、永遠のいのちを信ず」という下りがある。
ここに、私たちが抱く希望が述べられている。
人間の罪の報いは死である。誰もが死を迎えるのだから、人間は誰もが罪を持つ。その罪が赦されるとは、死が終わりではないことを意味する。
どういうことか?
イエス自身が経験されたことを、私たちも同じように味わうことができる、ということ。つまり、死んで葬られたイエスが甦って永遠に生きているように、私たちも死んでも復活すること、そして永遠のいのちを手に入れること、これである。
この世が終わり、やがて来る神の直接支配による新しい世界において、私たちは朽ちることのない身体を持って、神とともに永遠に生きる。
この約束こそ希望。希望があるから忍耐する。
パウロの祈りに重ねて私も祈ろう。
神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。(コロサイ1:11)
アーメン。