しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに私たちは癒された。
イザヤ書 53:6
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「待降」なんてキリスト教用語だから普通は使わない。意味は「(救い主の)降誕を待ち望む」である。
えっ? イエスキリストは、2000年前に生まれて十字架で死んだんじゃないの? それを待ち望むってどういうこと?
ふむ、こうしたシンプルな問いを抱くことから、神の招きは始まっていく。
これを説明しようとすると、キリストはこの世に2回来られるが、1回目はもう終わっていて今は2回目を待っている期間であること。1回目は苦難の僕として来られるが、2回目は栄光の王として来られること。なんていうことを話さねばならない。
にわかには信じ難いかもしれないが、それらのことは全て預言されている。しかもキリストが誕生するずっと前から。
その預言のことを「メシア預言」というのだが、それらの中で最も重要なのが、今回取り上げたイザヤ書53章である。
これは1回目に来られる(初臨という)ことの預言、つまり苦難の僕としての預言である。
長いけど、53章まるごと引用しておく。じっくり読みたい。
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1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。屠り場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 虐げと裁きによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
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この預言は、キリストが誕生する700年前に書かれた。日本はなんと縄文時代!
初臨のイエスはこの預言の通りに生まれ、そして死なれた。
・イエスは蔑まれて民に拒まれた。
・父なる神に打たれた。
・私たちの罪のために刺し通された。
すべて預言通りである。
イエスは、私たちが本来受けるべきだった罰を自ら身代わりとなって受けた。汚れのない完全ないけにえとして。
イエスは、罪のない完全な存在であるが、神が私たちの罪をその身に負わせた。そのことによって、私たちはイエスを通して神の前に義とされた。
イエスの打ち傷によって癒され、イエスの苦しみによって罪が拭い去られ、イエスへの懲らしめによって私たちは平安を得た。
二度目にこの世に来られるとき、イエスは勝利者で統治者である栄光の王、そして平和の君として来られる。
それを私たちは待ち望む。
主を待ち望むアドベント。主よ、来てください。マラナタ。