私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。
ルカの福音書 1章46-47節
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
“When I find myself in times of trouble, Mother Mary comes to me speaking words of wisdom let it be.”
Let it beの歌い始めである。(高校生の頃に必死で覚えた歌詞がちゃんと出てくるのは嬉しい)
囁いてくれる母メアリーは、個人的には作詞者ポールの母親の名前であり、普遍的にはイエスの母マリアである。
仮にポールが個人的に歌ったのだとしても、聴く者がそれを普遍的に受け取ることはあるだろう。
昨日の聖句は、そのマリアの囁き、というか祈りを取り上げる。
*
ルカの福音書1章を読み進めると、26節からマリアのストーリーが始まる。
「ところで、その6か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった」
物語のナレーションとして、この導入の仕方は秀逸だなと思う。5W1Hが明確に示され、何かが始まる予感を読者に抱かせる。
マリアは、ある日突然目の前に現れた天使から「おめでとうございます!」と言われ戸惑う(そりゃそうだろう)が、賢明な彼女は、天使が話すことをしっかり聞いて理解しようと努めた。
婚約期間のマリアに男の子が授けられること、その子は救い主であることなど、マリアは完全に理解することはできなかったかもしれないが、それでも「おことば通りこの身になりますように」と、天使のお告げを受け入れた。
今の中学生くらいの年齢であったことを思うと、驚くべき素直さと従順さである。いや、むしろ、その年齢だからこそ受け入れることができたのかもしれない。
マリアが登場する前に、同じように天使からお告げを受けた老齢の祭司ザカリヤは、信じられるように何かしるし(奇跡)を見せてほしいと求めた。そう、私たちは見えるものでしか信じようとしないのだ。
ゆえに、このマリアの態度には驚嘆する。従順さを見倣いたい。
*
マリアは単に素直で従順なだけの少女ではなく、聖書知識も豊富で、立派な信仰者でもあった。
そのことはマリアが神を讃えた祈りからもわかる。マリアの祈りは、先祖から代々引き継がれてきたイスラエルの歴史を下敷きにしており、神の恵みと慈しみに信仰を持って応答しているからだ。
今日の聖句は、マリアの祈りの最初のひと言である。
ひざまずいて手を組みこうべを垂れて祈る姿か、はたまた両手を高く挙げ晴れやかな表情で声高らかに祈る姿か、そのどちらでもよいが、マリアの祈りを味わってみたい。
クリスマスを祝う前に、母マリアがどのような気持ちでいたのかを知るのもいい。1文1文、噛みしめたい。
・私のたましいは主をあがめ、私の霊は、私の救い主である神をたたえます。
・この卑しいはしために目を留めてくださったからです。
・ご覧ください、今から後、どの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう。
・力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。
・その御名は聖なるもの、主の憐れみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
・主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
・権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。
・飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。
・主は憐れみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
・私たちの父祖たちに語られた通り、アブラハムとその子孫に対する憐れみをいつまでも忘れずに。
聖書的信仰は、歴史観と人生観を形成する。
私たちも、マリアの信仰に接ぎ木された者として、信仰を継承していく者でありたい。