神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。
コリント人への手紙第二 5:21
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営業同行の車中でのこと。同僚がふいに語り始めた。
親友が昨年暮れに亡くなった。癌と戦っていることは知っていた。前日までLINEをしていた。少し体調がよくないとは言っていた。亡くなったことは、年が明けて母親から知らされた。
話の内容が内容だけに、ハンドルを握りながら慎重に傾聴した。
知らされるまで、この世に生きていることが当たり前に思っていたが、そのとき彼女は既にいなかった。実際、その期間は会っていないのだから、会えなかったことがショックなのではなく、もうこの世にいなかったことにショックを受けた。
その気持ち、共感できる。
人は死んだらどうなるのかなと思った。人が死ぬのは何かの罪を負っているからなのかなと思った。考えてもわからないし、自分の持っている宗教観や人生観では理解できない。
そうだクリスチャンに聞いてみよう、ということで話してみたのだそうだ。
会津から酒田までの数時間のロングドライブは、こうして重いテーマながらも、私のクリスチャンとしての証しをする時間になり、また、死について罪について考える貴重な時間となった。
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今日の聖句にあるように、イエスキリストは私たちの罪を負い十字架につけられた。
義(私たちが通常使う倫理的な意味での正義とは異なる)であるキリストが、私たちの罪を担うことで、私たちに神の義が添加された。私たちの罪はキリストに転嫁された。
添加と転嫁。義が添加され、罪が転嫁されるということ。
キリストを信じ受け入れることで、この2つのテンカがなされる。
肉体の死は、それをもってこの世から旅立つという意味においては終わりではあるが、次のステージへの始まりということもできる。
それは、キリストとともに生きること。やがてくる永遠の御国において、神の愛に生きること。
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2年間通信講座で聖書を学んだとはいえ、こうして罪について、死について、義について、分かりやすく伝えるには至っていない。
同僚は理解してくれたかどうか、定かではない。一生懸命話しているなとは思ってくれただろうけど。
車中では、黙示録にある患難期やメシア復活、千年王国や新しい天地のことも話した。ここまで話さないと、クリスチャンがどこに希望を持って生きているのかが示せないと思ったから。
難しくても、今の自分の理解でもって他人に伝えることは、いい機会であった。
親友を失ったことによる喪失感が癒され、生きることに喜びを感じられるようにと願う。
「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」
(ルカ15:7)