王は私に言った。
「では、あなたは何を望んでいるのか」
そこで私は、天の神に祈ってから、王に答えた。
「王さま。もしも王が良しとされ、このしもべに好意をいただけますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある都へ遣わして、それを再建させてください」
ネヘミヤ 2:4-5
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ネヘミヤの祈りをテーマに小学生に語ることになった。
旧約聖書「ネヘミヤ記」を読むと、その冒頭にネヘミヤの2種類の祈りがある。
1つは断食を伴う長くて重い祈り。もう1つはインスタントな祈り。どちらも大切であるが、子どもたちには後者の祈りに絞って話すことにした。
簡単に時代を押さえておこう。イエスキリストが誕生する約450年前。バビロン捕囚で連行されたイスラエルの民が、バビロニアを滅ぼしたペルシアの王によって、祖国帰還を許された時代である。
そこで、ネヘミヤは献酌官として、ペルシア王に仕えていた。
ところで、ネヘミヤ記と前後して聖書に登場するダニエルやエステル、そしてネヘミヤと同時代を生きたエズラは、みなイスラエル民族であるが、異国であるペルシアで王に仕える者たちであった。これは驚くべきことである。
さてある日、ネヘミヤの元に、先にエルサレムに帰還した者から、未だ再建されず荒れ果てたままのエルサレムの惨状が伝えられた。それを聞いたネヘミヤは、深く悲しみ、断食をして長期戦の祈りに入った。
帰国できるよう神から王に働きかけてほしい、と。
この祈りのことを、もっと掘り下げたいところだが、今回はスルーして話を先に進める。
ネヘミヤの長期的な祈りが聞かれたのは4ヶ月後。顔色の優れないネヘミヤを王が「何かあったのか?」と気遣う。そこで、ネヘミヤはエルサレムの状況を伝える、と、そんな場面。
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ふぅ、前置きが長くなった。
では、望みは何なのか?と、王から訊ねられたネヘミヤは、まず祈った。サラッと読み過ごしてしまいそうな「天の神に祈ってから」という1節。
これこそ、ネヘミヤが祈りの人と言われる所以ではないかと思う。
4ヶ月祈ってきたことが、今まさに成就しようとしているのだ。流行る気持ちで、祖国に帰らせてほしいと直訴してもいいのに、いや、そうするのが当たり前なのに、ネヘミヤは、まず祈った。
ただ、祈ったといっても、目の前に王がいる。声高らかに祈る訳にはいかない。長い時間をかけて祈ることもできない。
ネヘミヤは、天を見上げてほんの一瞬祈った。声に出したか出していないか分からないくらいひっそり、そして素早く祈った。
なんて言ったのだろう。
主よ感謝しますとか、主よ導いてくださいとか、いや、アーメンのみかな。
祈った後の話の始め方もいい。王に敬意を表してから、単刀直入に希望を申し立てる。機会を逃さず掴み取る、機知に富んだネヘミヤにリーダーシップを見る。
驚くのは、これらのことを私が話しているときの子どもたちの聴く姿勢が素晴らしいこと。引き付けるために多少誇張したり、ドラマ仕立てで話したりしたが、それでも20分近く聞き続けることは大変なはずだ。
子どもたちに聖霊の助けがあったことを、話している私は感じた。生き生きした表情に、私もつい長く話してしまった。
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インスタントな祈りは、普段の生活に取り入れやすい。
家を出るとき、主よ守ってください。食事のとき、日々の糧を感謝します。眠りにつくとき、1日のお守りありがとう。
このように、簡単にできるし、教会に来てくれるクリスチャンファミリーではない子どもであっても抵抗なく祈ることができる。
子どもが、神さま! と口にした瞬間、神との親密なコミュニケーションが始まる。たったひと言であっても、神は確実に聞いておられる。
この「つながってる」という感覚を、子どもたちに持ってほしい。
通信技術が発達している現代ではあるが、私たちの神にはメールアドレスも携帯番号もない。LINEもMessengerもFacebookもない。
私たちの側が、神さま! と口にさえすれば、いつでも無条件でつながるのだ。
ネヘミヤのインスタントな祈りから、日々の生活でいつでも神につながることの大切さを学ばせてもらった。
★この祈り、カトリックでは「射祷(しゃとう)」というのだそう。
http://www.f-frank.sakura.ne.jp/talk083.html