しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。
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主イエスとサマリヤの女との対話。
井戸の水にまつわる2人のやりとりは、シリアスなのにどこかユーモアがある。文字通りにしか捉えられない女のもどかしさと、真理を伝えようとするイエスの寛容さと愛とにズレがあること、そう、ボタンの掛け違いが原因である。
旅の疲れを癒そうと井戸で休んでいたイエスのところに、サマリヤの女が水をくみに来る。そこでイエスが、水を飲ませてほしいと声をかける。すると、ユダヤ人のイエスがサマリヤ人に話しかけたことに驚いた女が理由を尋ねる。
ここでいきなり掛け違いが起きている。女にとっては、もはや謎解きレベルであった。イエスはこう答えた。
「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者が誰であるかを知っていたなら、あなたの方でその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」
水を飲ませてほしいと頼んできたのに、逆に水を与えてくれるって? 女の頭の中は「?」でいっぱいになり、混乱したはずだ。
すぐさま女が「生ける水をどこから手にお入れになるのですか?」と尋ねると、イエスは答えた。
「この水を飲む者は誰でも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」
女はイエスに言った。「先生、私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい」
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毎日井戸まで水をくみに来るのは、女性にとっては重労働だったに違いない。
だから、生ける水(いのちの水)が容易く手に入るなら、どんなことをしてもいいと思ったのだろう。
しかし、イエスはこの女の身上を全て知った上で、彼女を救うべく生ける水(永遠のいのち)を与えると宣言されたのだ。
ここに掛け違いがある。
この有名なシーンを読むと、私は2つのことを思い出す。
1つは自分のこと。
キリスト教を知る前、楽しければいいと奔放で刹那的に生きていた頃のこと。自由の意味を履き違えていた。
あの自由は、いわば放縦であり、心は解き放たれていなかった。いや、欲望の赴くままに生きていたという意味では、貪欲の奴隷であったとも言える。
この女のように、私も聖書に出会い、神を知り信じた。本当の生ける水を手に入れた。
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もう1つは中村哲さんのこと。
中村さんは、昨年12月にアフガニスタンで銃弾に倒れ、残念ながら命を落とされた。
その中村さんは、文字通り、アフガニスタンの人たちが命の水を得るために、命を賭した。
あれほど現地の人たちに慕われ、その死を悼まれた方はいないのではないだろうか。日本での報道があまりに少ないのが残念である。
医師でありながら、医療行為ではなく、そもそも人の命を救うためには水が不可欠であることに目を留め、そのために尽力された稀有な方。
同じことはできないが、その意志を受け継ぐことはできる。
イエスが実践されたように、私たちも、私たちを通して働かれる神の御業に期待する。祝福を受けた私たちが、その祝福を与えることができるように。