あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。
エペソ人への手紙 5:8
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光と闇。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)
すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。(ヨハネ1:9)
光と闇が明確に対比されている。このように、ヨハネは光と闇を意識していた。キリストは光そのもの、ヨハネはまず最初にそう宣言したかったのだろう。
以降、福音書でさまざまなエピソードを語りながら、著者ヨハネの意識はいつも光と闇に向けられている。
例えば、9章にシロアムの池での癒しのエピソードがある。
イエスが、生まれつき目の見えない盲人の男を癒す救いの奇跡である。ここでイエスは「わたしが世にいる間、わたしは世の光です」と言われた。
ヨハネがこのエピソードを記録したのは、それが単なる癒しの奇跡ではなく、見えない人が見えるようになるという奇跡を通して、闇から光へと人生を転換することの素晴らしさを伝えたかったからだと感じる。
イエスによって闇から光へと導かれた盲人の男は「主よ、私は信じます」と、信仰を告白し、見えない者から見える者へと生まれ変わった。
ヨハネ9章は、この男とその両親、そして律法学者たちとのやりとりが面白いが、ここでは触れない。
詳しく知りたい方は、私が愛聴しているメッセージステーションをどうぞ。
https://message-station.net/episode/1067/
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私たちはたとえ肉体的には盲目でなくても、霊的に盲目である。
それは、光の中を歩まず、闇に支配されていることを意味する。
犯罪のニュースを観ると、よく、白昼堂々…と言われることがある。本来、光がある昼間に闇は存在しないはずだが、闇に支配されて悪事を働く。あまりに闇の力が強く、それに屈してしまう。
そういえば、ハリポタのプロットも、ヴォルデモートという闇の勢力との戦いである。
何も犯罪を犯す人だけが、闇に支配されているのではない。私たちは、いつもそのリスク(流行りの言葉で言うなら、ダークサイドにハマる)に晒されている。
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イエスは、そんな私たちの弱さをよくご存じで、私たちが光の中を歩めるようにこう言われた。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)
光の中を歩むとは、自分の光を輝かせることである、と。
そして、今日掲げた聖句へと繋がる。
私たちは闇から光へと転換された。ならば、光の子らしく歩みなさい、と。
パウロの勧奨。シンプルで力強い。
「真昼のように」という私の大好きな賛美があるが、その歌を口ずさみたくなった。
♪ 真昼のように輝きながら、あなたの愛を伝えたい。イエスさまのように輝き続ける。世の光にしてください〜
イエスさまに出会いすべてが変わった。主よ、私は信じます。
★真昼のように
https://youtu.be/oSgf-Hqne9A