まことにあなたは
私のたましいを死から
私の目を涙から
私の足をつまずきから
救い出してくださいました。
詩篇 116:8
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思えば、神を知る前の自分は何者だったのだろう。
GWの連休に、どこにも出かけられないから、1日かけて古い写真を整理した。
アルバムに貼らないまま簡易的にポケットアルバムに挟んだもの、はたまた小袋に入れたままのもの、ざっと数百枚の写真が現れた。
出てきた写真は、東京での暮らしを謳歌していた大学生から結婚するまでの約10年間のものだ。
あの頃の自分、もはや直視することができなかった。
肉に生き、わがたましいは死んでいた。
*
思えば、迷える子羊だったのだろう。
翼を得た鳥のように自由だと思っていた。しかし、本当は翼を奪われ欲望の奴隷になっていた。
刹那主義、快楽主義に溺れていた。
何冊か束になったポケットアルバムがあった。開いてみると、北海道にひとりで旅をしたときの写真であった。
カーフェリーで小樽に降り立ち、そこから日本海を稚内までひた走り、オホーツク海を回って旭川に入った。そこから今度は東に向かい、阿寒湖、摩周湖を経由して、日本最東端の納沙布岬へ。朝日を拝んだ。
それから、釧路、帯広、富良野、札幌、函館と回って旅を終えた。帰りはひたすら陸路を走った。
実はこの旅、三浦綾子の小説の舞台を訪ねることを目的にしていた。
読みながら泣けてしょうがなかった「塩狩峠」を皮切りに、三浦ワールドにドップリ浸かってしまった。そして、ある日「そうだ、北海道に行こう」と思い立ち、旅に出たのだった。
この旅から戻り、すぐに地元のキリスト教会を訪ねた。そこで初めて聖書に触れた。
1つ前の7節に「私のたましいよ おまえの全き憩いに戻れ。主がおまえに良くしてくださったのだから」とある。
神は、死んだたましいに命を吹き込み、私に良くしてくださった。
*
思えば、順風満帆な人生などない。
私のようなさほど取り柄のない人間でさえ、自暴自棄になったり、泣いたり躓いたりする。
もし神を知らなければ、私のたましいは今も彷徨っていたに違いない。もし聖書に触れていなければ、生きる指針を得ることはなかったに違いない。
続く9節から最後の19節までを黙読したい。
9 私は、生ける者の地で、主の御前を歩きます。
10 私は信じています。まことに私は語ります。私は大いに苦しんでいました。
11 この私は恐れうろたえて言いました。「人は誰でも偽りを言う」と。
12 主が私に良くしてくださったすべてのことに対し、私は主に何と応えたらよいのでしょう。
13 私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めます。
14 私は自分の誓いを主に果たします。御民すべての目の前で。
15 主の聖徒たちの死は、主の目に尊い。
16 ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解いてくださいました。
17 私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。
18 私は自分の誓いを主に果たします。御民すべての目の前で。
19 主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真ん中で。ハレルヤ。
ハレルヤ!