聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

悪意もろとも

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無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。


エペソ人への手紙 4:31


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●Aを捨て去る=get rid of A


受験英語でやった。頻出イディオムだったはず。


丸暗記していただけだから、深く意味を考えたことがなかったけど、単に捨てるのではなく、内在している厄介なものを取り除く、という意味合いが含まれることがわかった。


Aに、病気や怪我といった望まない環境が来れば、そこから抜け出す、となる。


Aに、人が来れば、解雇する、となる。


Aに、不要なものや重要じゃないことが来ると、それらを片付けたり追い払う、となる。今回はこれに当たる。


では、厄介なものは何か? 不要なものは何か?



聖句にいくつか並んでいる。


怒りや罵り、そして無慈悲。これらが厄介なもの、不要なものだ、と。


たしかにそうである。


罵りや無慈悲はできれば取り除きたい。そこには、正しさや情けがないからだ。


ただ、悪に対する怒りや憤りは、不要とは思わない。正しく怒ることや、不正や萩に対して外には出さずとも内側で憤ることは、健全だと思う。


しかし、そこに悪意があるならば、まったく違ってくる。


悪意や敵意をベースにした怒りや憤りは、厄介である。洋服に付いたほんの小さな染みが、気付いたらどんどん広がっていくように、はじめは自分でも気が付かないくらいだったのが、知らないうちに大きな怒りの塊を抱え込むようになる。


もはや制御不能である。



ベースになる悪意とは、その字のごとく、悪魔の意図である。


自分では気付かない、知らないうちであっても、悪魔(神に敵対する存在のこと)は明確な意図を持って、私たちに罠を仕掛けてくる。


だから、パウロは言うのだ。


怒りや罵り、無慈悲は、そのベースにある悪意とともに捨て去りなさい、と。


はじめは気付かないかもしれない。気付くのは、もしかしたら怒ったら罵ったりしたあとかもしれない。


でも、気付いたらそのときに、即刻捨て去る。悪意とともにバッサリ取り除く。


どうやって?


エスキリストの御名によって祈ること、これである。


エス自身がそう言っている。


私たちは、悪に打ち勝ったイエスが示すこの確信によって生きる。


「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」
ヨハネ 14:14)


https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-pray-Jesus-name.html