私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。
詩篇138:3
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
神の愛は無条件に注がれる。
たとえ私たちが意識していなくても注がれるし、仮に私たちが拒んだとしても、それでもなお注がれている。
創世記にあるノアの物語を読んでいると、神が私たちと交わした約束が記されている。
「わたしとあなたがたとの間に、また、あなたがたとともにいるすべての生き物との間に、代々にわたり永遠にわたしが与えるその契約のしるしは、これである。
わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである」
うっかりすると読み過ごしてしまうが、この約束はノアとその家族にだけ有効なのではなく、私たち全人類を含むすべての生き物が対象となっている。
これが神からの無条件の恵み、尽きることのない愛のしるし、だ。
*
力を与えるとか、強くされるとか聞くと、なにやら勇ましい感じがする。
英語を見てみると、emboldenという単語が使われている。この単語を、流行りの語源で理解する式に分解すると、接頭辞em(en)+形容詞bold+接尾辞en、となる。
boldには「大胆な、勇敢な、恐れ知らずの」といった意味がある。接頭辞のenには「make 〜させる、作用する」の意味が、接尾辞のenには「〜にする、〜になる」となら、全体で動詞になる、てな仕組みだ。
ふぅ、調べると奥が深い。
なぜここまでして1つの単語にこだわるのかというと、日本語では分かりにくい語のニュアンスやそこに込められた真意が理解できるからだ。もちろんヘブル語やラテン語の方がいいのだろうが、そこまでは手が出ない。
*
神が私たちを勇気づけたり、励ましたり、大胆にさせたりするのは、決して遠慮がちではない。
そこには、makeの「強い圧をかける」イメージが内包されている。
私たちが、神さま!と呼びかけると、神は間違いなくその呼びかけに応答し、そして力を与えてくれるのだ。
心に疲れを感じるとき、人間関係に嫌気が差すとき、怒りの感情に支配されそうになるとか、神さま!と呼びかけよう。
私たちの神さまは、必ず応えてくれる。お賽銭もお布施もいらない。
トランシーバーで「神さま、神さまどうぞ」と呼びかけると、「はい、こちら神です、どうぞ」とノイズの中から聴こえてくる。
そんなイメージを絶やさずに。
神からの無条件の恵みに、私たちは信仰で応答しよう。