聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

トコにて

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私に御顔を向け私を憐れんでください。
私はひとり苦しんでいます。
私の心の苦しみが大きくなりました。
どうかこの苦悩から私を引き出してください。
私の悩みと労苦を見て
私のすべての罪を赦してください。


詩篇 25:16-18


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体調を崩した。


熱が出て、頭痛がして、倦怠感もあって…そう書くと、それってもしかして? と思うだろう。私もそう思った。


コロナ相談窓口に電話して、状況を伝えると、吐き気や空咳、肺が苦しいといった症状がないようなので、すぐに検査を受けるのではなく自宅で安静にしていてください、とのことであった。


そうか、ならばおとなしくしているかと、会社には在宅勤務申請を出し、ほぼ1週間うちにこもっていた。


おかげで体調は回復した。



心もカラダも弱ったときは、詩篇を読むに限る。


詩篇には等身大の人間の喜怒哀楽が綴られている。神への感謝はもちろんだが、反対に哀願というか嘆願というか懇願というか、そんな思いもストレートにぶつけている。


そういうところに共感する。


カラダがだるいので、文字を追いかけるのは辛く、もっぱら聴くドラマ聖書で詩篇の世界に浸かった。


いにしえのイスラエルの民も、文字ではなく耳で聖書に親しみ誦じていたわけだから、そう思うと少し嬉しい気持ちにもなる。


今回取り上げた詩篇25篇は、アルファベット詩篇と言われている。どういうことかというと、文頭がヘブル語のアルファベット順にアレフ、ベス、ギメル…と、きれいに並んでいるのである。


技法といえばそれまでだが、そうではなく、耳から覚えるのに日本にいろは歌があるように、アルファベット順にすると覚えやすいからだ。もちろん、日本語にするとそんな工夫もまったく意味がないから、読んでも聴いても、別に覚えやすくはないのだが。



さて、この25篇は、内容的には1つのテーマを扱っている。それは、「苦難の中での救いを求める祈り」である。


今回のようにカラダが弱っているときや、苦しみのなかにあるとき、聖書を読めなくなるのと同じように、祈ることが難しくなる。


神さまの方に顔を向けることが難しくなる。


祈れないとき、詩篇を読む。そこには、祈りの言葉がたくさん収められている。


25篇を読む(聴く)とき、この祈りを順に唱え、神さまに心を向けることができる。


すっと倦怠感が抜けるわけではないが、心が安堵する。


救いを求める祈りが私たちに与えられていること、幸いである。