人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
マルコの福音書 8:36
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手に入れても、の部分は以前は、儲けても、と訳されていた。
簡単に言えば、たとえ大金持ちになったとしても、命を失ったらいったい何の得があるだろうか、ということになる。
お金さえあればなんでもできるという今の世の風潮ではあるが、命を失えば何の得もないことくらい、子どもでもわかる。
しかし、私たちはお金をまるで神のように崇めたり、また恐れたりしがちである。根底に虚栄や貪欲が潜んでいるからである。
「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです」
(ルカ 12:15)
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命は財産にない、その通りだ。命をお金で買うことはできない。
イエスは、続けてこんなたとえを話した。
「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない』
そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」』
しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか』
自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです」
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貪欲とは、すべて我がものとすることである。
この金持ちの男の言葉を追いかけてみると「私の作物、私の倉、私の穀物、私の財産、私のたましい」と、ことごとく「私の」と、我がものとしている。
これが貪欲である。
こうして今よりもっと多くの富を手に入れ、たとえ世界を手に入れたとしても、いのちを失ってしまえば、それでおしまいだ。
ならば、富は地上ではなく、天に積んだ方がいいのではないか。
聖書にはこんなことも書いてある。
「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。自分のために、天に宝を蓄えなさい」
この行ないによって、結果的に私たちはいのちを得る。これはパラドクスかもしれない。
地上に富を積むことでいのちを失うのではなく、天に富を積むことでいのちを得る、ということだ。
そう、生き方が規定される。