聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

何者かである

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だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。


ガラテヤ人への手紙 6:3


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ひとかどの人物。


「他の人と比べて極めて優れている人」のこと。


野心を持って、いつかひとかどの人物になりたい! とか、目上の人から、いつかあなたもひとかどの人物になりなさい! とか、そうやって使う。


今日の聖句にある「自分を何者かであるように思う」とは、自分で「自分をひとかどの人物と思う」ことである。


これ、自惚れ以外の何者でもない。



けれど、私たちは案外、「自分をひとかどの人間と思う」性質があるものだ。


体力が人より優れていて、人より速く走れる、人より高く飛べる、そうすると誇らしい気持ちになる。


能力が人より優れていて、人よりテストでいい点数を取る、人よりいい高校や大学に合格する、そうすると誇らしい気持ちになる。


財力が人より優れていて、人よりいい洋服を着ている、人よりいいクルマに乗っている、そうすると誇らしい気持ちになる。


偽らざる私たちのリアルな感情、生々しい、剥き出しの感情である。


こうして他の人と比較して、自分の優位を実感し、自分を何者であるかのように思う。


勘違いも甚だしい。


自分自身を欺いている、その通りだ。



この短い聖句は、「何者でもない」「自分を何者かであるように思う」「自分自身を欺いている」と、3つに分解できる。


まずもって大切なことは、私たちは「何者でもない」存在であると認識することである。


私たちは、神に創られたもの。アダムが土(アダマ)から創られ、やがて塵に帰ると言われたように、私たちは土塊(つちくれ)に過ぎない。


だから、人と比べて自分が優れていると自惚れたり、逆に、劣っていると卑下したりする必要はないのだ。その資格がない、というべきか…。


創られた私という土塊は、神にとっては、他の誰とも置き換えることのできない唯一の存在。


自分では「何者でもない」と認識しているが、神にとっては、私たち一人ひとりが「何者かである」存在。


そのことに目を向けたい。