だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。
ガラテヤ人への手紙 6:3
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ひとかどの人物。
「他の人と比べて極めて優れている人」のこと。
野心を持って、いつかひとかどの人物になりたい! とか、目上の人から、いつかあなたもひとかどの人物になりなさい! とか、そうやって使う。
今日の聖句にある「自分を何者かであるように思う」とは、自分で「自分をひとかどの人物と思う」ことである。
これ、自惚れ以外の何者でもない。
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けれど、私たちは案外、「自分をひとかどの人間と思う」性質があるものだ。
体力が人より優れていて、人より速く走れる、人より高く飛べる、そうすると誇らしい気持ちになる。
能力が人より優れていて、人よりテストでいい点数を取る、人よりいい高校や大学に合格する、そうすると誇らしい気持ちになる。
財力が人より優れていて、人よりいい洋服を着ている、人よりいいクルマに乗っている、そうすると誇らしい気持ちになる。
偽らざる私たちのリアルな感情、生々しい、剥き出しの感情である。
こうして他の人と比較して、自分の優位を実感し、自分を何者であるかのように思う。
勘違いも甚だしい。
自分自身を欺いている、その通りだ。
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この短い聖句は、「何者でもない」「自分を何者かであるように思う」「自分自身を欺いている」と、3つに分解できる。
まずもって大切なことは、私たちは「何者でもない」存在であると認識することである。
私たちは、神に創られたもの。アダムが土(アダマ)から創られ、やがて塵に帰ると言われたように、私たちは土塊(つちくれ)に過ぎない。
だから、人と比べて自分が優れていると自惚れたり、逆に、劣っていると卑下したりする必要はないのだ。その資格がない、というべきか…。
創られた私という土塊は、神にとっては、他の誰とも置き換えることのできない唯一の存在。
自分では「何者でもない」と認識しているが、神にとっては、私たち一人ひとりが「何者かである」存在。
そのことに目を向けたい。