天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い。
イザヤ書 55:9
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天が地よりも高いって、誰もが知ってる自明のことだ。
なのに人は、天に近づこうと空高く目掛けて塔を積み上げて、神の怒りに触れる。有名なバベルの塔の話。
このとき人は、使用言語をバラバラにされ意思の疎通ができなくなったことが理由で、塔の建築を断念する。
人と人がチームとして機能するためには、共通言語が必要であることのいい教訓である。これは、あとがきのハイキュー‼︎ ともリンクする。
天に近づこうとするのは、それでもまだ可愛い。人の欲とは恐ろしいもので、天に、つまり神に近づくことを求めるばかりか、自らが神になろうとさえする。
神は全知全能であり、この世のすべてを創造した方、それに自分がなろうとする。愚かだと思うが、歴史を遡ればそのような人は確実に存在している。
為政者や独裁者と呼ばれる人たちは、自ら神であるかのように振る舞い、そして神を崇めるように自らを拝むよう強いるものだ。
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何か特別なことに長けた人を「神〜!」って言ってみたり、「神対応」とか「神ってる」とか言ったりする。
神の名をみだりに唱えてはならない…十戒の戒めが虚しくなるくらい、簡単に神扱いする。ちょっと何かに秀でているだけで、神だ!と言って一目置かれたりする。
しかし、別に為政者や独裁者でなくても、私たちだって何でもできるオールマイティになりたい思いはある。神になろうなんて大それたことは考えなくても、全能であることへの憧れはある。
そんな思いをくじくような今日の聖句。
私たちが神のように高く上がりたいと思っても、その理解を遥かに超えるレベルで神が存在すること。私たちの思いを超えたところに、神の思いがあること。
欲にまみれた思いをガツンと正してくれる。
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神は、私たちが何かをしたから憐んでくれるのでもなく、私たちが何かを施したから恵んでくれるのでもない。
聖書を読めば、え、この人が神に愛されるのか?と、私たちが思うような人が、神に憐れまれ神の恵みを受けている。
例えば、聖書上で偉大なものとして描かれている信仰の父アブラハム、偉大な預言者モーセ、イスラエルの王ダビデ、このような人たちでさえ、神の前に立つことができないほどの、驚くような過ちを犯している。
少なくとも神は、私たちが完ぺきになることを求めているのではないことが分かる。
私たちは完べきになれば、神に喜ばれると思ってしまうし、それを目標にしてしまう。しかし、神の思いはそれとは違うのだ。
神は、自分がどうであるかなど気にせず、そのままご自身に近づいてくる人に、ただ恵みを施しているのである。自分がどれだけきちんとしているか、という基準ではない。
神はただ私たちに良くしたい、その心をそのまま受け取る人にご自身の恵みを示されたいのである。
そのまま、神さまの懐に飛び込もう。