聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

フリー

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キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。


ガラテヤ人への手紙 5:1


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マスク生活も、まもなく1年になろうとしている。


慣れたと言えば慣れたし、今でも慣れない気もする。息苦しいし、相手の表情が分かりにくいし、不自由だと思うことも多いが、そんなこと言っていられない。


日常生活を送るのに不自由に感じるマスクであるが、そのおかげでウイルス感染の脅威から身を守ることができている。


この意味において、私たちは危険から解放されており、フリー、つまり自由であると言える。


不自由だと思うことが、一方では自由である。このように、どちらから捉えるかによって、正反対の見方を得る。



10代の頃、家族と住んでいるのが窮屈で早く独りで暮らしたかった。さらに、学生でいることがイヤで早く社会に出て稼ぎたかった。このときの気持ちは、解き放たれたい、自由になりたい、であった。


しかし、手に入れたと思っていた自由は、結局は欲望のおもむくままに生きることであった。好き勝手に生きる自由は、罪の奴隷であった。


解放されたと思って飛んでいるが、実はケージの中を飛んでいるに過ぎなかった。


そう、ケージだった。cageには捕虜の意味もある。捕らわれの身であったのだ、あの頃の私は。


そこから出してくれたのが、キリストだった。



このガラテヤ人への手紙でパウロが書いたことは、パウロ自身の実体験から得た真理である。


ユダヤ教宗教学者としてキリストを迫害していたパウロが、キリストによって解き放たれ、キリストを伝える者へと変えられた。


同じように、罪の奴隷としてつながれたままの私も、キリストによって本当の自由を得た。


宗教は窮屈だと思っていた。宗教に頼る奴は軟弱だと思っていた。自分で生きる自信がない者が宗教にすがるのは格好悪いと思っていた。


けれど、それは間違いだった。


窮屈ではなく、むしろ解放だった。自分で生きていく自信がないと認めることは、実は自由を得るためのキーだった。


ケージから外に出られてよかった。

 

 


「フリー」が歌いたい。子ども向けだから、歌詞がストレートに入ってくる。https://youtu.be/UMoPm8WJwno