この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
エペソ人への手紙 2:8
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恵みゆえに救われた。
ふっと聖歌593番が流れてくる。
この歌のサビに「ああ恵み、計り知れぬ恵み。ああ恵み、我にさえ及べり」とある。
歌詞とメロディがバッチリ合っている。8分の6拍子のリズムも心地よい。
歌うと心が現れる。
あぁまさに、救われたのは恵みゆえ。
こんな私にさえ注がれた恵み。計り知れない恵み。
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恵みゆえに救われた。と、並列に、信仰によって救われた、ともある。
恵みが、神さま側から一方的に注がれるのに対して、信仰は、私たちから神さまへの応答である。
いただいた恵みに、信仰をもって応じる。救いの条件は、恵みと信仰のセットであって、愛を受けて愛を与えるのと同じ構図だ。
まず受ける、次に与える。
同じように恵みが先にあって、それに信仰で応じる、この順である。
与えたからもらえるのではなく、つまりgive & takeではなくてtake and give、受けてから与えるのだ。
信仰によって救われた私たちは、愛を与える者としての使命がある。
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最後に、神の賜物について。
恵みが神さまから一方的に注がれることは、すでに述べた。恵みが神からの賜物(ギフト)であることは誰もがわかるだろう。
しかし、恵みに対して信仰で応じる、と言ったときの信仰は、自分の意思で持つものと思いはしないだろうか。
信じる信じないは自分次第。信じる者が救われるのなら、まあ信じてやってもいいかな、みたいに。
これが勘違いである。
信仰もまた、神からの賜物(ギフト)なのだ。
神を知らない者が神の存在を知る。自分の罪の性質に気付く。悔い改める。信じる。受け入れる。
このような1つ1つのプロセスに、神さまは働いておられるのだ。
生きて働く神は、いつも私たちを御許(みもと)に引き寄せようとしてくださっている。手招きしている。呼んでいる。
それに応えよう。
はい、私はココにいます!と高らかに手を挙げよう。