聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

赦されたものとして

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しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。


イザヤ書 53:5

 

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旧約聖書にはメシア預言と呼ばれる、イエスキリストの出現を示した箇所がたくさんある。


なかでも、イザヤ書53章は受難のメシア預言としてよく知られている。


今回取り上げたのは、その1節。


ここで言う「彼」がメシアであるイエスのことを、「私たち」が狭義にはユダヤ人を、広義には私たち人類を指す。


そしてこのたった1節の理解と、その受け入れが、私たちの救いに直結する。


一言でいえば、イエスは私たちの罪のために十字架で死に、それによって、私たちに救いをもたらした、ということである。



十字架につけられるためには、裁判で死刑判決を受けなければならない。しかし、当時のユダヤはローマの属国であり、イエスを裁くことができなかった。


そこでユダヤの祭司たちは、神に対する冒涜罪としてイエスを捕らえ、ローマに対してはカエサルへの反逆罪として死刑判決を求めた。


しかし、当時のローマ総督ピラトは、ユダヤ人の浅薄な策略を見透かし、イエスに罪はないと断定した。


それに対し、祭司たちはユダヤ人の群衆を扇動し、今にも暴動を起こさんとす、という状況でピラトに迫った。自分が統治しているユダヤで暴動が起きては、ピラトの立場が危うくなることを知ってのことである。


結果、ピラトはイエスに死刑を言い渡し、そして、イエスは十字架刑で死なれた。


聖書によると、メシアは木に架けられるという預言がある。しかし、ユダヤ式の死刑は石投げの刑であり、木に架けられるものではない。当時、木に架けられる死刑執行をしていたのがローマであり、イエスがローマ式の十字架刑で死なれたのは、実は聖書の預言の成就であった、ということになる。


イザヤが言う、私たちの背きや咎(とが:普段使わないが、欠点とか過ちという意味。「とがめる」としてはよく使う)とは、イエスを死に追いやったユダヤ人に対するもの(イザヤ自身もユダヤ人だから)である。


と同時に、時代を超えて、民族を超えて、背きや咎は、今の私たちにも適用されるものである。



エスの死、そして復活が普遍性を持つものであることを理解せねばならない。


2000年前のユダヤで、メシアと呼ばれるイエスが、十字架に架けられて死んだ。そして3日後に復活した。この事実を、あの時代のあの地域のこととして限定してはならない。


エスの時代を遡ること2000年前、族長アブラハムに神が啓示されたこと、それは「神はアブラハムを祝福し、彼を通して地上のすべての民族を祝福する」という約束であった。


神の啓示は、ユダヤ人の救いだけではなく、ユダヤ人を通して、すべての国と民族が救われるというものである。


そして、その約束は、私たちが何かをしたから有効になるのではなく、まったく無条件に与えられるものであり、有効期限もない。


4000年前にアブラハムと交わした契約が、それから2000年後のイエスに引き継がれ、部分的に成就した。そして、イエスが再び来られる日(=再臨)に、それは完全に成就する。


私たちはその狭間に生きている。


日々犯す罪、それは大きなものから小さなものまで、数えきれないのだが、そうして重ねていく罪を、イエスはすでに自らが十字架に架かり死んでくださることで、私たちが本来支払うべき罪の対価を身替わりになって完済してくださった。


私たちが生来持つ罪の性質は決して消えないが、それでも罪が赦されているということ、それを知っているということ、そして、それを信じ受け入れているということが、どれほど今の自分を勇気づけてくれるだろうか。


次の日曜日から受難週、そして来月最初の日曜日がイースター。この時期に、改めて十字架を見上げる。


私たちは平安を得る。癒しを得る。