聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

自分を低く

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キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。 


ピリピ人への手紙 2:6-8


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受難週に入り、今度の日曜日がイースター(復活節)である。


すっかり年間イベントの1つとして日本人にもお馴染みとなったイースターだが、クリスチャン以外でその本当の意味を知っている人は意外に少ないかもしれない。


思い出した。高校の同級生が別れた彼女とヨリを戻したときに「イースター復活!」という葉書を喜んで送ってきた。彼は、ミッション系の学校に行っていたのに、こういうところは無頓着だったんだな、と今はそう思う。当時は、宗教心の欠片もなかったから、何も感じなかった。


さて、日曜日のイースターを迎える前に、クリスチャンが使う教会暦、いわゆる行事予定表に沿って、この数日間を眺めておきたい。


明日の木曜日は「洗足木曜日」といって、有名な最後の晩餐で、イエスが弟子たちの足を洗った日である。その席でイエスが弟子たちに対して、人にへりくだり、仕えることの大切さを教えるため、自ら率先して弟子たちの足を洗ったことを記念する日である。


「イエスは夕食の席から立ちあがって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた」(ヨハネ13:4-5)


当時、奴隷の仕事であったことを、イエス自身が互いに仕えあうことを示すために行われた。


明後日の金曜日は「聖金曜日(Good Friday)」という。


木曜の晩餐のあとイエスは捕らえられ、夜通し複数回の裁判にかけられ、翌金曜日の朝9時に十字架につけられた。そして午後3時に息を引き取られた。


そこから数えて3日目の日曜日、イエスは復活された。これがイースター



パウロが今回の箇所で、イエスのことを回想しながら解説している。


パウロはイエスの最後の3日間のとき、何をしていたのか? 彼は、イエスを死刑にするために暗躍していたユダヤ人の指導者であった。多くのイエスを信じる者たちを迫害した。そのパウロは、復活後のイエスに出会い、回心した。


パウロは「神の御姿であられる」と言う通り、イエスが神であることを認めた。


しかし、栄光の主ではなく、受難のしもべとしてのイエスも同時に認めた。パウロ回心の肝はココにある。


神なのに神としてのあり方を捨てる。神なのに自分を空しくする。神なのにしもべの姿をとり、人間と同じようになられる。神なのに人として自らを低くし、死にまで、十字架の死にまで従われる。


こう言葉をつむぐパウロは、イエスの姿を思い起こしていたに違いない。と同時に、迫害していた自分のことも思い出していただろう。


真実を体験し、真実を伝えるために、パウロは苦しい自分の過去もさらけ出して、声を上げたに違いない。



翻って、今の私たちは、イエスパウロもいない世の中に生きている。


しかし、彼らが辿った道のりを知ることができるし、聖書によって追体験することもできる。


すでに示された神のへりくだり、それは愛するひとり子イエスを十字架に架けられたこと、それに対して、私たちもまた、神にへりくだり、そして人にへりくだることを教えられる。


パウロはこのように述べている。


「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:2-3)


利己ではなく利他。自惚れではなく謙遜、でも決して卑屈になるのではなく。


自己憐憫や自己否定ではない、正しい自尊心を持っていたい。


今年のイースターは、オンラインで子どもたちとエッグハントをする。子どもを愛したイエスに倣って、私たちも幼い子どもたちを愛そう。