あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。
コロサイ人への手紙 4:6
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聖書と塩。
切っても切れない関係だと思う。
食用として、防腐剤として、また清めとして、実際に塩を使う場面がたくさん出てくる。
一番印象的なのは、堕落の街ソドムとゴモラに硫黄の火が降り注ぐ場面で、後ろを振り返ったロトの妻が塩の柱になってしまうところ。この話をはじめて読んだときは、あまりの恐ろしさにゾッとした。
食用でも防腐剤でも清めでもなく、言ってみれば罪の報酬としての塩であるが…。
聖書では、このように塩そのものを扱うことのほかに、ヒトの性格や性質を表すときに用いられることもあって、今回の聖句はこっちの事例である。
日本でも、最近、塩対応なんて言葉を聞く。それはしょっぱい、つれない、そっけない、おざなりといった意味であるが、つまりは塩気がないということではないか。
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イスラエルのある中東で塩といえば、それは海塩ではなく、岩塩だろう。
死海や地中海があるから、海塩や湖塩もあったと思うが、おそらく岩塩の方が入手しやすく一般的だったと思う。
岩塩は不純物が多くて、それが旨みであったりする。しかし、不純物が多すぎると、旨みを通り越して食べられなくなる。また、水分が混ざって岩塩に含まれる塩気を奪ってしまうと、これまた塩として何の役にも立たなくなってしまう。
そうなると岩塩は道端にポイッと捨てられてしまうそうだ。
この日常があるからこそ、イエスの発言「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです(マタイ 5:13)」が通じるのである。
塩気のない塩ってイメージできなかったが、岩塩ならそれが分かる。
私たちを塩にたとえ、塩気を失ってはならないと訴えたイエスのメッセージは、だから当時の人々にストレートに響いたはずだ。
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パウロは、コロサイの信徒たちに宛てた手紙で、イエスが伝えた「あなたがたは地の塩です」という教えをより具体的に解釈した。
私たちが塩気のある人でいるために必要なこと、それは「いつも親切で、塩味の効いた」言葉を使うこと、である。
自宅でパスタをよく作って食べるが、パスタの味を決定するのは茹で塩だと思っている。どれだけフライパンでアーリオオーリオが上手にできようが、どれだけ新鮮な具材を使おうが、麺の塩気がなければせっかくのパスタは台無しである。
このように、考えなしに言葉を投げつけるのは、塩を入れずにパスタを茹でるみたいなものだ。
自分の口から出る言葉が、塩味が効いているか?そこに誠実さや親切はあるか?希望や喜びはあるか?そして何より愛はあるか?
自問したいものだ。
愛のある言葉を!