あなたのしもべを傲慢から守ってください。
それらが私を支配しないようにしてください。
そのとき私は大きな背きから解き放たれて
全き者となるでしょう。
詩篇 19:13
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髪を切ってもらいながら、美容師さんと自由について話していた。
なんでそんな話になったのかよく覚えていないが、なぜか自由のこと。
若い子たちは、みんなお金持ちになりたい、自由になりたいって言うんだよ。でもだからって、自分で何かをするわけじゃなく、ラクしてお金が手に入って、そしてラクして自由に暮らしたいんだって。
つまり、お金持ちになることと自由になることがイコールなのだ。欲しいものが何でも手に入る。これが自由なのだ。
…わかる。もう痛いくらいによくわかる。だから思う、気付けたらいいのになと。
それは自由ではなく束縛であると。奴隷であると。自由とは程遠いのだと。
自由と思っていたら、実はそれとは真逆の状態に陥っているってことに気付けたらいいのにな。
*
手に入れたと思っていた自由は、実はただの欲望の塊で、束縛から自由になったのではなく、自由という名の欲望の支配下に置かれただけなのだ。
これに気付くのに10年以上かかった。
美容師さんと自由談義に花を咲かせながら、ダビデのこの詩を思い、そして自分の若い頃を思い出していた。
子どもの頃に王としての油注ぎを受け、誰もが振り返る端麗な容姿を与えられ、抜群の音楽の才を認められ、とんとん拍子に人生が好転していった若き日のダビデ。
地位も名声も得て、経済的にも不自由がなく、情欲の赴くままに姦淫の罪を犯し、その罪逃れのために部下を死に至らしめた。晩年には、息子に裏切られるなど苦汁を飲む。
しかし、この詩篇は晩年のダビデが過ぎた日々を振り返りながら、なおも神に信頼することをやめていないという宣言でもあるのだ。
*
傲慢に支配されませんようにと謳うダビデの心境に、私の思いを重ねたい。
神を信じることは、この世的に考えれば不自由に映るかもしれない。実際、日曜日に礼拝に行くことを窮屈だと言われたり、いろんな禁止事項があって面倒だと言われたりするから、そう思われるのだろう。
でも自分自身の経験から断言する。
自由だと思って手に入れたものが束縛であり、罪の支配であったのに対し、不自由だと思っていた信仰には自由があったということを。
神を信じることによって得られる自由。
それは、○○からの自由ではなく、○○への自由と言える。
そこに本当の意味での解放がある。
そのとき私は大きな背きから解き放たれて全き者となるでしょう、とあるように。。。