聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

神の時

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神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。


伝道者の書 3:11


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今日の聖句は、私がクリスチャンになる前、専門用語では求道中というが、聖書を拾い読みしているときに見つけて感動した箇所だ。


「伝道者の書」は聖書の中でもマイナーな部類に入る。しかし、キリスト教初心者の日本人には意外に受け入れやすいかもしれない。


1章には「空の空、すべては空」「日は昇り、日は沈む」「知恵が多ければ悩みも多く、知恵が増す者には苛立ちも増す」と、聖書的な世界観を持っていなくても、道徳的に倫理的に常識的に、理解し共感することができる。


今回取り上げた3章もそうだ。


1節2節を読むと「すべてのときには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」とある。


続けて読み進めると「殺すのに時があり、癒すのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある」といくつも対比して綴られていく。


日本人だと、無常観を感じるかもしれない。あるいは運命論的な捉え方をするかもしれない。


しかし、唯一真なる神を信じる者は、神がこの世を創り、この世を支配しておられることを信じ受け入れている。

 

だから、神の営みの下で人間が生かされていることは無常でもなく無力でもなく、感謝なことである。



求道者だった私は、「伝道者の書」をクリスチャン的に読むことができなくて、当時聖書を教えてもらっていた老齢の牧師に質問したことを覚えている。


神の時ってなんですか? と。


すると、時間の概念にはクロノスとカイロスの2種類があるんだと教えてくれた。イカロスみたいで勇ましい兄弟のようだ。言葉そのものはギリシャ語とのこと。


クロノスは、時系列をchronological(クロノロジカル)というように、誰にとっても同じように客観的に流れていく時間のこと。履歴書の学歴や職歴を思い出してもらうといい。


聖書にも、イスラエルの歴代の王について記した「歴代誌」があるが、これも英語ではChronicles(クロニクル)と言う。アーティストのベスト盤なんかでもよく使われる。


一方、カイロスは何かに夢中になっているとあっという間に時間が過ぎたり、退屈な会議に出ているといつまでたっても時間が過ぎなかったり、同じ時間でも長く感じたり、短く感じたりする、あの時間感覚のことである。


つまり、クロノスは客観的時間であるのに対し、カイロスは主観的時間であると言える。



これで答えが出た。


神の時、それはカイロス、神の主観で動いている時間のことだった。


人間にとって1日は1日、1年は1年と変わりないが、神にとっては「一日は千年のようであり、千年は一日のようです(第2ペテロ3:8)」とある通りだ。


私たちは、自分の努力でうまくいくときもあれば、失敗するときもある。


喜び過ぎて有頂天になれば、神は静まるときを与えてくれる。逆に、落ち込んでどうしようもないときは、一番最適な方法とタイミングでその苦難から助け出してくれる。


喉頭がんの手術をし療養中だった父に、この聖句を送ったことを思い出す。


あなたがたが体験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)


いま父は、がんを克服し、70を過ぎてもなお現役で仕事をし、趣味の登山や写真にいそしんでいる。神の時、脱出の道が確かにあった、ということである。


神のなさることは、すべて時にかなって美しいのだ。