聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

神の作品

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実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。


エペソ人への手紙 2:10


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中学生のとき、1回だけ「1」を取ったことがある。


忘れもしない。それは入学したばかりの中1の春、学校近くの牡丹園にスケッチに行き、水彩絵の具で色付けをした、その後のことだ。


美術室で全員が自分の作品を手に持ち、一列に並ぶ。先生が1枚ずつ絵を見て「5」とか「3」とか、大声で5段階評価を付けていった。


そして、自分の作品を見て「1」と言った。


それはそのまま通知表の評価になった。後にも先にも通知表で「1」だったのは、そのときだけである。


小学校の図画工作は好きだったし、取り立ててセンスがあるとは思わなかったけど、まさか「1」とは。あのときのショックは今もよく覚えている。


幸いなことに、その先生はその年度で退職され、中2では違う先生になった。中2では、粘土で作った花瓶が県の優秀作品賞に選ばれるという栄誉にあずかった。


花瓶のアイデアの段階では、きわめて凡庸だった。粘土で作り始めても、ごく普通のありふれた花瓶だった。しかし、新しい先生が1つのアイデアをくれたことで、作品が大きく変化し、見たことのない独創的な作品に生まれ変わった。



作品、と聞くと、今もこのことを思い出す。


作品は、ありふれたものだろうが独創的なものであろうが、1つとして同じものはないオリジナルなものである。見た目は同じに見えても、作り手にしかわからない細かな工夫があったりする。


同じように、私たちは神の作品である。1人として同じ人間はいない。1人1人がオリジナルな存在である。


神によって、細かな特徴が1人1人に与えられる。それを賜物(ギフト)という。


神によって備えられた賜物を、私たちはどうする?



聖句にはこうある。


私たちが作られたのには、理由がある。それは、良い行いをするためである。


神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました、とある。


父親や母親が子どもに対して、正しい道をまっすぐ進んでほしいと願うように、神もまた、私たちに対して、良い行いに歩むようにと願っておられる。


良い行い、それは具体的にどういうこと?


それはイエスキリストに倣うこと。神であり人であるキリストこそが、私たちの模範である。


WWJDというフレーズがある。これは、What Would Jesus Do? のイニシャルで「イエスだったらどうするだろう」という意味。


悩めるとき、苦しいとき、悲しみの中にあるとき、迷えるとき、怒りに我を忘れそうなとき、不安で押しつぶされそうになるとき...。


エスさまだったらどうするだろう...と考える。その先に、良い行いがきっとある。


備えられたオリジナルな賜物を用いて、良い行いをしよう。