わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。
エレミヤ書 17:10
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聖書には「報い」という言葉がよく出てくる。
一般に私たちが「報い」と聞くと、悪いことをしたときに与えられる報復とか罰という印象が強い。
けれど、辞書で調べてみると「善行や悪業の結果として得られるもの、または身に受けるもの」とある。
このように辞書では、良いことでも悪いことでも結果として与えられるものが報いだと、ちゃんと定義されている。
「果報は寝て待て」の果報は幸運の意味、つまり良い意味で使われている。この果報は、報いと同意である。
果報も報いも、言葉の感じから言って仏教語だろう。因果応報の応報もそうであるように。
聖書を日本語に訳すときに、日本人に馴染みのある言葉を使ったことでこうしたことが起きたのだろう。
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今日の聖句では、神が私たちの行いに応じて報いる、とある。
良くも悪くも、である。
行いに応じて…これは誤解を招きかねない。注意が必要だ。
どういうことかと言うと、行いは目に見えるところでしかないからだ。氷山の一角、とも言える。
行いに応じた報いを得られるのであれば、目に見える行動だけ良くしていれば大丈夫だと勘違いしかねない。
でもそうではないのだ。
聖句の前半にあるように、神は、私たちの心を探る方、心の奥を試す方、なのである。
神は私たちの生き方を見ておられる。
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前回も取り上げた、第一サムエル記15章の「人はうわべを見るが、主は心を見る」の通りである。
目に見える行動だけ良くしていても、そしてそれが誰の目にも素晴らしいと思えるものであっても、心が汚れていればそれなりの報いしか得られない。
どれだけ取り繕っても神は、私たちの心を見られる。
心の在り方が問われる。
いまの時代もまさにそうではないか。to Doからto Beの時代へ、何をすべきかよりもどうあるべきか、根本をえぐられる。
神の報い、それも報奨を得られるように、私たちは心を磨いていこう。