その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。
エレミヤ書33:15
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教会暦というキリスト教の暦があって、クリスマス前のこの時期は待降節(たいこうせつ)と言う。
クリスチャンになる前は、当然こんな言葉は知る由もなく、アドベントカレンダーのアドベントが待降節を示していることを知ったのもずいぶん後になってからであった。
さりとて、クリスチャンになっても待降節の意味を正しく理解していたか?といえば、そうではなかった。
二千年前に来られたイエスキリストの誕生を祝うクリスマスの前に置かれた、4週間の「待ち望む」期間くらいの認識しかなかった。
当然そんな薄っぺらなものではなかった。
「待ち望む」のは二千年前の追体験が目的ではない。イエスキリストが再び来られることを「待ち望む」のだ。
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イエスご自身の証言。
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:3)
天使の証言。
そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」(使徒1:11)
見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。(ヨハネの黙示録1:7)
聖書を正しく読み解けば、イエスが再び来られることはそこかしこに記されている。
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聖書で「その日」や「そのとき」は、と終末のときを表す。
再びイエスの証言。
そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。(ルカ21:27)
今日の聖句にある「その日」「そのとき」も同じ意味である。
預言者エレミヤは、自分がいつのどのときのことを預言しているか分からないまま、神の御告げをそのまま記した。
しかし、イエスの初臨を経て現代に生きる私たちは、それが再臨のことを表していたと知ることができる。
イエスは再び来る。完全なる正義をこの世界にもたらすために。私たちはそれを「待ち望む」のである。