主よ、あなたは私の神。私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画をまことに、真実に成し遂げられました。
イザヤ書 25:1
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2022年最初の日曜日は正月2日。
単独で帰省していたから、田舎の教会で礼拝に参加することができた。
年のはじめは何かと新しい気持ちになるものだ。人生に迷い悩みもがき苦しんでいた26の頃にこの教会の扉を叩いた…そんなことを思い出していた。
はじめて手にする聖書、はじめて歌った賛美歌、はじめて聞いた牧師の説教、そしてはじめて聞いた祈りのことば。
何もかもが新しく、不思議で、それなのになぜか心が穏やかになった。
別にそのことで具体的な将来や夢を見つけた訳ではない。
しかし、神に出会い、聖書を読み、賛美歌を歌い、見よう見まねで祈りを捧げることで、生きることの意味を少しずつ見つけることができた。
信じて歩んでいけば、道は拓かれるんだと。
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教会に通い始めてしばらく経った頃、ふと思ったことがある。
教会に行くのも聖書を読むのも、自分の意思で決めてきたと思っていたが、そうではなかったということ。
そうではなく、私は招かれていたのだということ。
何でも自分で選んで自分で決めて行動するものだと思っていたし、そうあるべきだと思ってきた。
しかし、決めたのは自分ではなく神であった。
イザヤの預言書、今日は25章を取り上げたが、この箇所を読んで、あの頃そう感じたことを思い出した。
その思いはいまも変わっていない。
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自分で自分のことを決めるのが当たり前の世の中で、神が私を招いておられると確信することは、なかなかに困難である。
なぜなら、いったん自分の固執した考えとか、こだわりを捨てなければならないからだ。
また、他力本願を認めなければならないからだ。
招かれていると感じるためには、自我をひとまず脇に置いて、自分の考えとは異なる神の計画を受け入れる。
神の計画は私たちには分かり得ないけど、神の計画があること、それが真実であることは信仰によって知っている。
信じて委ねることができる。
主権者が自分ではなく、神こそ主権者であると信じ、自らを明け渡す。
明け渡す…そう、自分勝手に使ってきた部屋を本来の部屋の持ち主に無条件で明け渡すように。
神の計画を信じ、主権を神に明け渡そう。