わたしは近くにいれば、神なのか
──主のことば──
遠くにいれば、神ではないのか
人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか
──主のことば──
天にも地にも、わたしは満ちているではないか
──主のことば
エレミヤ書 23:23-24
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クリスチャンになる前、いや、聖書や神の存在を知る前のこと、私は典型的な日本の宗教観を持っていた。
よく言われる日本の年末年始の恒例行事として、12/25にクリスマスを祝い、12/31に除夜の鐘を突き、1/1に初詣に出かけるという、いわゆるなんでもこいの、つまりは宗教観なんて本当は何もない、空っぽな信仰であった。
なかでも初詣は神社という非日常の空間、いろいろな約束事があるという儀式性、神主や巫女といった独特なキャラ、そうした点でも特別で、きっと日本人の精神を土台の部分で形作ったんだろうと思う。
神社に行って賽銭を投げて、鈴を振って、柏手を打って、手を合わせて目を閉じる。第一志望の高校に受かりますように…みたいな願いごとをつぶやく。祈りじゃなくて、ただのお願い。
それからおみくじを引いて一喜一憂して、絵馬を買ってそこにもお願いごとを書いて、最後に御守りを買って帰る。これが神社での一連の流れである。
これは信仰じゃない。
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形式だけの祈りだから、それは信仰じゃなく、だから宗教観なんてないし、言われても分からないし、聞かれても無宗教ですと平気で答える。
神社でお参りはするのに、八百万の神々は信仰の対象ではなく、言ってみればアニメのキャラみたいな身近な親しみがあるレベル。
寺院には墓があるのに、まともにお経をあげることはなく、僧侶は軽んじられ、もはや仏教徒であるとは言えないレベル。
綴りながら、もう20年以上も経つのに、自分の適当な、うわべだけの宗教観をよくこんなに生々しく覚えているものだと感心した。
そして、そこからクリスチャンになって20年になるんだ、と感慨に浸るのだ。
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神は預言者エレミヤを通して、唯一なる神は、どこにでも存在すると言っている。
近くにいるとか遠くにいるとか、隠れているとか見えるとか、そういうことではなくて、天でも地でもあまねくすべてにおいて存在する。これを遍在する神という。
わたしは満ちていると言う神を、だから私は信じる。
神は自然現象を通して私たちにその存在を知らしめる。いわゆる一般啓示である。
一般啓示については、使徒パウロがローマ人への手紙の冒頭でこう述べている。
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。(ローマ 1:20)
神の被造物である私たちは、神の被造物を通して、神の存在を知る。
神は満ちている。弁解の余地はない。