聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

聖書的謙遜

f:id:songchi0326:20220901005303j:image

なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
 
ルカの福音書 14:11
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
うちの教会の牧師は、毎年夏になると、東北地方のいくつかの教会で礼拝説教の奉仕をされる。
 
半分は仕事であるが、東京から奥さまと一緒に自家用車で出かけていることから、きっと夫婦水入らずの旅行のような気分を味わっているかもしれない。
 
牧師不在の間は、他教会の牧師が説教をしてくださる。
 
普段なかなか触れることのできない他の牧師の説教が聴けるのはいい。聖書の解釈は変わらずとも、その伝え方は人それぞれだし、解釈から導く適用はその牧師の人となりというか、キャラクターが出る。
 
先日の礼拝説教は、以前にも何度か来てくださった30代の若手の牧師が担当された。
 
若さゆえの粗削りなところがあるが、なにしろ勢いがあるし、熱量がすごい。そんなメッセージを聴くと、こちらにも着火して元気が湧いてくる。
 
今回のテーマは「聖書的謙遜」であった。
 

 
謙遜。
 
クリスチャンなら誰もが、イエスを通して謙遜を学び、日々実践をしていることだろう。
 
しかし、謙遜は決してクリスチャンの特権ではない。
 
謙遜は、時に日本人の美徳として語られるものだし、そのとき謙遜は宗教ではなく、道徳として捉えられる。
 
だから、謙遜と言うとき、この世的な謙遜と聖書的な謙遜を区別する必要がある。
 
この世的な謙遜というと、例えばビジネスの現場において、お客さんに対しては常に謙遜であれとか、上司に新し提案をするときは謙遜な態度が望ましいとか、基本的には相手がある関係性において、相対的に自分を下に置くという意味合いが強い。
 
「~させていただく」といった謙譲語などはその最たる例だろう。
 
このとき、謙遜は、謙虚、控えめ、へりくだり、慎ましやかと言い換えられるし、そう見せること、そう振る舞うことに長けていることが美徳とされる。つまり、外面的な行為としての謙遜である。
 
一方、聖書が示す謙遜はどうだろう。
 
聖書的な謙遜はいくつもあるが、やはりイエスが最良の実例である。イエスの言葉で、あぁこれが謙遜ということかと思わされるのが、今日の聖句である「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」である。
 

 
英語訳を見ると、高い=exalt、低い=humbleとある。
 
humbleだから、低くすることが謙虚であることはわかる。が、高くすることをexaltとしているのは、これはニュアンスとしてはもっとドロッとしているというか、黒々としているイメージで、arrogantとかboastといった語感の方がしっくりくる。
 
聖書をベースにした「サーバント・リーダーシップ」というリーダーのタイプがある。この聖句でイエスが言う「高いものが低く、低いものが高い」というパラドクスは、まさにサーバントリーダーのあるべき姿である。驕ることのない謙遜なリーダーということだ。
 
しかし、サーバントリーダーも外面的なところをなぞるだけでは、この世的な謙遜と何ら変わりなく、それは偽善である。聖書的な謙遜は、外面的な行為としての謙遜ではなく、内面的な心の在り様を指す。イエスは群衆に向けて「心の貧しい者は幸いです」と言われたが、「心の貧しい者」こそ、謙遜な人のことである。


使徒パウロの告白を思う。現代にまでつながるキリスト教の礎を築いた偉大なパウロでさえ、「神の前に誇れるものは何もない」、「神の恵みと赦しに信頼するしかない」と言っているのだ。
 
私たちは、聖書的謙遜を知りながらも、この世的な価値観の中でカタチだけの謙遜を演じてはいないか。見せかけの謙遜によって傲慢になっていないか。
 
自己吟味する必要がある。
 
主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。
ヤコブの手紙 4:10)
 
誰かの前で謙遜であるよりも、神の前で謙遜でありたい。