しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
ローマ人への手紙 5:8
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ここのところ原罪に思いを巡らせている。
原罪。それはアダムによってすべての人に漏れなく付加された罪のこと。
あのとき罪が人類に入り込んでいなかったら、いつまでもエデンの園で神とともに暮らすことができたのかなとか、それでも別の手段でやっぱりヒトは堕落し、その回復のために神はイエスを差し出したのかなとか。
ナンセンスとわかっていても空想してしまう。
旧約聖書を読んでいると、罪を犯し続ける人間とそれを赦し続ける神の関係が何度も繰り返し記されている。
ノアの時代、バベルの塔、ソドムとゴモラ、出エジプトと、これでもかと言うくらい生々しく書かれている。
旧約聖書の後半、預言者の時代に入ると、有名なイザヤやエレミヤを通して、神はキリストの誕生を予告する。
神による人類救済計画、いわゆるメシア預言である。
ちょっと長いが、イザヤ書の53章をまるごと引用する。メシア預言といえばたいていここを取り上げるし、アドベント(待降節)のいま読むのに相応しいと思うから。
理解が難しいのを承知で、ゆっくりじっくり読んでみよう。
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私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
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字面を追うだけではよく分からない。
イザヤ書を読み始めた頃、あまりに言葉が分からず、かつ文脈も分からず、何度も挫折した。
牧師に何度も質問したし、ネットで検索したりもした。
けれど、結局腹落ちさせるために必要なのは何度も読むことであった。
1つ1つの言葉の難しさを気にすることなく、全体を掴もうとすること、分からないところは今はまだ分からなくていいのだと言い聞かせて、気にせず先に進むこと。
今では完璧に理解している、という訳ではない。それでもこれがメシア預言であると確信できるようにはなった。
メシアがなぜこの世に来られたのか。なぜ罪を背負って死なれたのか。
この問いに答えているのが、今回の聖句である。
ここでパウロが真理の解き明かしをしている。
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられる。
原罪、つまり罪の性質があることを認める。罪の奴隷からの解放のためにキリストが罪を背負う、これが罪の転嫁。転嫁した罪はキリストの死によって贖われ、キリストの復活によって聖なる者とされる。
こうした神の愛による赦しと救いが、今も連綿と続いている。
それに預かるかどうかは、私たちの自由意志である。