そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主を呼び求めて言った。「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えてくださいました。しかし今、私は喉が渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています」
士師記 15:18
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え、ここですか?
という箇所を用いて礼拝説教を始めたのは、教会で中高生会をリードしている伝道チームの20代のリーダーであった。
士師記に出てくるサムソンは確かに英雄である。しかし、聖書には野蛮で下品で色狂なサムソンがこれでもかと描かれている。私たちにとってはむしろ反面教師なのだ。
サムソンの物語は「誕生・謎解き・撲殺・神殿倒壊」の4パートに分かれるが、今日の聖句は第3パートにあたる。
イスラエルの敵であるペリシテ人1000人を、ロバのあご骨1本で打ち殺したというトンデモナイ話。で、この凄惨な出来事のあと、サムソンはひどく喉が渇いたのである。
聖書に登場する幾多の人物の中で、水が欲しくて神を呼び求めたのはサムソンしかいない。
散々人を殺めておきなぎら喉が渇いた!と神を呼び求めるサムソンは、人間的には、なんて身勝手な男だと思うだろう。
しかし、神の目にはそう映らなかったのだ。
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サムソンに渇望(死ぬほど喉が渇いていたのだから文字通り「渇望」である)された神は、なんと、ちゃんと応答したのである。
しかも即応したのだ。
聖書に「すると、神はレヒにあるくぼんだ地を裂かれたので、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復し生き返った」とある通りだ。
生き返るとは、聖書的には息を吹き返したという意味になる。
そう、それはまるで、土塊に神が息を吹きかけて最初の人間アダムが生まれたときのように、そして新約聖書では、イエスによって生ける神の水(つまり聖霊)が注がれた数々の奇跡と同じように、死にそうだったサムソンもまた息を吹き込まれ生き返ったのである。
アタマでわかっていても、それでもサムソンを救われた神の御心は理解に苦しむが、事実としてサムソンは救われたのだから、神の正しさや確かさを認めざるを得ない。
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もう一度、聖句を読み返してみる。
すると、サムソンは「喉が乾いて死にそうだ」と自分の必要を訴える前に、まず「あなたは大きな救い(great victory)を与えてくれました」と神を褒めたたえているではないか。
なんということだ、サムソンの直情的で自分勝手な神への渇望に気を取られて、サムソンが神に栄光を帰していたことをすっかり読み落としていた。
ここで出エジプト記のイスラエルの民のことを思い出す。
エジプトから脱出し、荒野を旅していたイスラエルの民は、たびたびモーセに不平不満をぶちまけた。
たとえば、出エジプト記17章には野営地に飲み水がなかったことに怒った民が「いったいなぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を渇きで死なせるためか」と、モーセに詰め寄った場面がある。
彼らはエジプトでの苦役から救い出されたことも、有名な十の災いから逃れたことも、そして追いかけてくるエジプト兵を滅ぼすために神が海を二つに割ったことも、そのように神がしてくださった数々の救いの業をいったん脇に置いやって、挙句「飲む水を与えよ」と文句を言ったのだ。
サムソンはロバのあごの骨でペリシテ人を殺めた後で、もちろん蛮行だから褒められる行為ではないのだが、それでも自分が神によって大きな救いを得たことをまず告白している。ここにサムソンのへりくだりと信仰を見る。
わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。
(イザヤ57:15)
渇きを覚え神を呼び求めることで、神は私たちの必要を満たしてくださる。
これが今日の結論である。