そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。
テモテへの手紙 第一 2:8
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昨年から教会で役員を務めている。
が、週末は学校に通っている関係で、礼拝は辛うじてYouTubeで視聴、役員会に至っては欠席が続いていた。
ずっと気にはしていたが、たまたま3月は春休みで時間が取れたから、久しぶりに役員会に出席することができた。
役員会では冒頭に聖書輪読がある。
今回取り上げた聖句は、輪読でちょうど私が読んだ箇所である。なんというか、必要なときに必要な聖句が与えられたことに、驚き、少し戸惑い、そして感謝したのであった。
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この聖句を声に出して読みながら感じたこと。それは、表面的に読むと「怒らない」「言い争わない」といった、戒めの表現に心を奪われてしまうということ。
〜してはならない、という禁止の命令形は、人の思考をネガティブな状態に縛り付ける。
現に、有名なモーセの十戒では「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない」と禁止の命令形で畳み掛けてくる。
十戒の前で我々は実に無力である。
しかし、この聖句での強調点は、禁止の命令形ではなく、その直後にある「どこででも」にある。
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英訳を見るとそれは明らかだ。
I want the men everywhere to pray, lifting up holy hands without anger or disputing.
アタマから直読直解で訳すと「私(パウロ)はどこででも祈ってほしいのだ、清い手を掲げて、怒ったり言い争ったりすることなく」となる。
逆に言うと、怒ったり言い争ったりすると、どこででも祈るなんて到底ムリなのである。祈りとは、心を神に向けて、神と対話すること。
なのに、日々の由無しごとに気を取られて、神にピントが合ってない、対話するにも上手くチューニングが合っていない、そんな最近であった。
どこででも祈る。
いまこの聖句が示されてよかった。