聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

羊飼いと羊

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盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
 
ヨハネ福音書 10:10
 
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abandon。
 
大学受験ときに使っていた単語帳の最初のページにあった単語。動詞で「捨てる・やめる」、名詞だと「自由奔放・身勝手」いう意味がある。
 
今日の聖句で「豊かに」にあたる英語はabundantlyであるが、abandonと abundantが混乱して、うまく意味が取れなかった。
 
紛らわしい単語の代表みたいなものだ。しかも意味がまるで異なる。 
 
けれど、ただ意味がわからなかったでは終わらせたくないから、なんとかしてこの2つの単語を意味をもって繋ぎ合わせ、記憶したいもんだと考えた。
 
そしてそれは意外に楽しい時間であった。
 

 
今日取り上げたヨハネ福音書10章10節の前後を見てみる。
 
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。(10:9)
 
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。(10:11)
 
ここで「わたし」とはイエスのこと。つまりイエスは、門であり、牧者(つまり羊飼い)である。
 
もう1箇所、有名な詩篇23篇の冒頭を取り上げる。
 
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水際に伴われます。(詩編23:1-2)
 
ここでも主は羊飼いとある。羊飼いである主が牧場に伏させたり、水際で憩わせたりするのは当然ながら羊であり、詩編の作者であり自らも羊飼いであったダビデは、「私」を羊にたとえて、この詩を謳った。
 

 
では、ヨハネ福音書10章と詩篇23篇、そしてabandonとabundantを統合してみよう。
 
羊は、日本では可愛い動物のように思われているが、実は頑固で攻撃的で自由奔放である。なかなか言うことを聞かず、自分勝手で、羊飼いなしでは何もできない存在である。
 
つまり、羊はabandonであり、abandonな羊は、まさに私たちそのものと言える。
 
羊飼いである主は、私たち羊を盗みや殺しから守ってくださる。しかも、命を懸けて守ってくださる。
 
ただ、羊は羊飼いの言うことを聞き、命を得るための門から出入りしなければならない。そうしなければ、羊飼いの守りは受けられないからだ。
 
主は私たちを救いに至らせるために、門まで連れてきて、そこから出入りするようしてくださる。そうすれば、私たちは主から豊かな祝福を得ることができる。
 
自由奔放(abandon)な私たちは、主に導かれ豊かな(abundant)いのちを得る。
 
自分中心を捨て、神さまを中心に据え、そして豊かないのちを得よう。