愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
コリント人への手紙 第一 13:4
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1週間フルで北海道に出張だった。
いつもなら先輩と二人で札幌市内を営業してまわるのだが、今回はそれとは異なり、単独で札幌以外にも出向くことになった。
用意されたのは、札幌を起点に函館まで南下して行く道南コースと、旭川から帯広、釧路へ抜ける道東コースの2つ。
三浦綾子ファンの私ならば、迷わず道東コースを選ぶはずであろう。しかし、道南コースを選択した。
函館に行きたかったのだ。
25年前に北海道を独りで旅したとき、旅はカーフェリーの到着港である小樽から始まり、最後は函館で終えた。函館からは陸路でひたすら高速道路で帰った。
その旅で一番印象に残っている街が函館であった。だから、また行きたいと思ったのだ。
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この話が今日の聖句とどう関連するのか?
道南コースを選んだとはいえ、旭川に行きたかった気持ちを消すことができず、出張中、ずっと三浦綾子さんに思いを馳せていた。
三浦綾子さんなくして、私はクリスチャンになることはなかった。彼女の作品に出会っていなければ、聖書も知らず、神の存在も知らなかった。
「塩狩峠」を読んで涙して、「氷点」を読んでその描写の細かさと的確さに驚愕し、以降、三浦作品にドップリ浸かり、エッセイから小説まで読み漁った。
三浦さんの、たしかエッセイだったと思うが、そこでこの聖句が紹介されていた。
いわゆる「愛の讃歌」として知られている箇所で、結婚式でも必ず読まれるお馴染みの聖句だ。
この聖句にある主語の「愛」は、「神」のことである。なぜなら「神は愛」だからである。
聖書にも
なぜなら神は愛だからです。
(第一ヨハネ 4:8)
とある通り。
神は忍耐強く、情け深く、妬まず、自慢もせず、そして高ぶることはない。
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三浦さんは、主語を「自分」に読み替えてごらんなさい、と言う。
さて、どうなるかというと
自分は忍耐がなく、情けもなく、妬んでばかりで、自慢したがりで、すぐに高ぶってしまう。
となる。
そのときの自分は、読み替えてみて愕然とした。
あれから20年近く経つが、忍耐強く、情け深く、妬まず、自慢せず、高ぶらず生きているか?と問われたら、いや、そうではないと答える。
しかし、忍耐強くあろう、情け深くあろう、妬まないように、自慢しないように、高ぶらないようにと、心がけているから、それだけでも成長したと言ってよい。
もちろん、そうあらせてくださいと、あなたのように振る舞えるようにさせてください、と祈る。
三浦さんと出会い、神を知り、生き方を変えられた。次に北海道に行くときは、今度こそ道東コースを選ぼう。