愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。
コリント人への手紙 第一 13:4
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キリスト教式で結婚式を挙げると、必ず読まれるのがこの第一コリント13章。たいてい4節から7節まで読まれる。
愛は◯◯である、愛は◯◯ではないと、愛の定義が並べられている。新郎新婦はそれらの言葉を恭しく噛みしめる。
そして、神が2人を引き合わせたのだから、自分勝手に離れてはならないと、この聖句も併せて読まれる。
創造の初めから、神は人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離 れ、二人は一体となるのです。それで、もはや二人ではなく、一人なのです。こういうわけで、人は神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(マルコ10:6-9)
それでも残念なことに、離婚が、キリスト教国であろうとお構いなしに、起きる。愛の実践は難しい。神の計画と人間の思いには大きな隔たりがあることを知る。夫婦の関係については、また改めて考えることにして…。
さて今日は、あちこちに飛ばず、掲げた第一コリント13章4節だけを取り上げることにする。
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この聖句を、小学生男子10人で1句ずつ区切って読んだ。そして、その意味をゆっくり時間をかけて理解するよう努めた。
子どもたちにとって、愛はどう捉えられているのだろう。
国際色豊かな私たちの教会には、様々な国籍を持つ子どもたちが集まっている。それを利用して、この聖句は英語では何て言うんだろう? ハングルでは? と他の言語を介することで、理解を深めることができる。幸いである。
愛は寛容。寛容って?英語では、patient=忍耐、と書いてある。給食に大好きなデザートが出た。最後まで取っておいて楽しみにしていたのに友だちに食べられてしまった。そこで、ムカッと怒るのではなく、ニコッと微笑む。そんなのムリー!
例えが適切かどうかはさておき、このように「愛」を「私」に置き換えて読むと、子どもたちの自然な反応が得られる。それでいい。普通に考えたらとてもムリー! そう、「私」が寛容になるのは難しくても、「愛」は寛容なんだ。
こうして、愛は親切であること、人を妬まないこと、自慢しないこと、高慢にならないことを、同じように身近な例を通して、英語やハングルを絡めながら理解を深めていった。
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そんなのムリー! ということをイエスさまが言うのはどうしてだろうね、そう問うと、小学生男子は必死で考える。
ムリだけどがんばれ! って言ってるのかな、今はできなくてもいつかできればいいってことかな、愛ってスゴイね! とか、ポツポツと答えてくれる。
愛を擬人的に使っていることを感じ取った子どもは感性が鋭い。「自分」に置き換えたことで、その視点を持てたのだろう。
聖書の最後の方に、ヨハネの手紙がある。そこにこんな聖句がある。
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(Ⅰヨハネ4:16)
神は愛です。
「愛」は「神」と置き換えることができる。つまり、今日の聖句は、神の子であるイエスが自ら語る神の性質なのであった。
そんなのムリー! と言っていた子どもたちが、神さまが愛そのものだと聞いて、脱力している。よく分かる、私も同じだから。
だから、私たちは、自分の罪の性質を悔い改めて、神の愛の性質に変えられる必要がある。変えられるように祈ろう。
第一コリント13章は、読んでもいいが、聴いてもいい。