聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

子どものように

f:id:songchi0326:20200729232158j:image

まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。


マタイの福音書 18:3


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


クリスチャン新聞を読んでいたら、面白いことが書いてあった。


「話す」ことは「放す」である、と。


子どもが転んで泣いているとき、それは痛いからではなく、かまってほしいからだそうだ。


かまってもらった子どもは、痛みだけでなく、不満や不安も含めて、いっぺんにぶちまける。それは、話すというより、吐き出すといった方がいい。


話すことで、抱え込んでいるもやもやを解き放つのだ。


ふむふむ、なるほど、である。



このことは、何も子どもだけでなく、大人にも当てはまる。


私たちは、喜びなら、わりと分かち合おうとするが、悲しみや苦しみは自分で抱え込んでしまうものだ。


誰にも話すことができないままストレスとなって、心や身体に大きな負担を強いる。


私と同世代の中高年層の自死などは、その典型だろう。


聖書に出会い、神を知り、向きを変えていたら。子どものようになっていたら、と思うのだ。



かまってほしいと駄々をこねるのは、子どもらしさというより、わがままや自己中心かもしれない。


たしかに、友人に吐露したり、妻にボヤいたりするとそう思われてしまう。


しかし、駄々をこねる対象が神さまだとしたら…。


神さまは、私たちの悲しみや苦しみを侮られる方ではない。ましてや、私たちのうめきや嘆きを聞かれないような心の狭い方ではない。


エスキリストでさえ「この苦しみを取り去ってください」と訴えたのだ。私たちが言えない理由はない。


抱え込まずに吐き出す。話すことで放たれる。神さま方向に、向きを変える。子どものようになる。


エスは、続く4節でこう言う。


ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。


子どものように。

悪意もろとも

f:id:songchi0326:20200722210302j:image

無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。


エペソ人への手紙 4:31


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


●Aを捨て去る=get rid of A


受験英語でやった。頻出イディオムだったはず。


丸暗記していただけだから、深く意味を考えたことがなかったけど、単に捨てるのではなく、内在している厄介なものを取り除く、という意味合いが含まれることがわかった。


Aに、病気や怪我といった望まない環境が来れば、そこから抜け出す、となる。


Aに、人が来れば、解雇する、となる。


Aに、不要なものや重要じゃないことが来ると、それらを片付けたり追い払う、となる。今回はこれに当たる。


では、厄介なものは何か? 不要なものは何か?



聖句にいくつか並んでいる。


怒りや罵り、そして無慈悲。これらが厄介なもの、不要なものだ、と。


たしかにそうである。


罵りや無慈悲はできれば取り除きたい。そこには、正しさや情けがないからだ。


ただ、悪に対する怒りや憤りは、不要とは思わない。正しく怒ることや、不正や萩に対して外には出さずとも内側で憤ることは、健全だと思う。


しかし、そこに悪意があるならば、まったく違ってくる。


悪意や敵意をベースにした怒りや憤りは、厄介である。洋服に付いたほんの小さな染みが、気付いたらどんどん広がっていくように、はじめは自分でも気が付かないくらいだったのが、知らないうちに大きな怒りの塊を抱え込むようになる。


もはや制御不能である。



ベースになる悪意とは、その字のごとく、悪魔の意図である。


自分では気付かない、知らないうちであっても、悪魔(神に敵対する存在のこと)は明確な意図を持って、私たちに罠を仕掛けてくる。


だから、パウロは言うのだ。


怒りや罵り、無慈悲は、そのベースにある悪意とともに捨て去りなさい、と。


はじめは気付かないかもしれない。気付くのは、もしかしたら怒ったら罵ったりしたあとかもしれない。


でも、気付いたらそのときに、即刻捨て去る。悪意とともにバッサリ取り除く。


どうやって?


エスキリストの御名によって祈ること、これである。


エス自身がそう言っている。


私たちは、悪に打ち勝ったイエスが示すこの確信によって生きる。


「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」
ヨハネ 14:14)


https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-pray-Jesus-name.html

きよさを求める

f:id:songchi0326:20200715233457j:image

すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。


へブル人への手紙 12:14


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


前回は癒しやリラクゼーションのことを書いた。


疲れたり重荷を負っている人は私のところに来なさい、休ませてあげましょう、と言われたイエスの言葉に、私は救われた。


罪の奴隷ではなく、自由の奴隷になることを選んだ。


癒しもリラクゼーションも必要だが、たましいの安らぎこそ、必要であった。


今回は、癒しやリラクゼーションをもう一歩先に進めた話だ。



癒される、というように、癒しは基本的に受け身だ。


もちろん、信じるという選択をしているし、救われたい! 自由になりたい! という積極的な意思もある。


しかし、もっと能動的に何を求めるのか、というと、それは「きよさ(聖さ・清さ)」だと、ある。


きよさ、、、はて。


聖書では、聖は「区別する」ことを意味すると、聞いたことがある。


つまり、きよさを追い求めるとは、古い自分に別れを告げること、頑丈なパーティションで遮断すること。罪の性質に溺れることのないようにシャッターを下ろしておくこと。


そうして、罪に背を向けて、情欲や嫉妬といった悪からの招きを断つ。



神から一方的に与えられている恵みを受ける。


恵みを受けるためには、心が開いていなければならない。素直さや謙虚さで、神の恵みを受け入れることができる。


まっすぐに神が示した道を歩む。


もう、これまで散々、道を踏み外して生きてきた。


もしかしたら、これからもふらふらと、踏み外すことがあるかもしれない。


でも、その先に溺れたりはしない。立ち返るところがある。それを知っている。もう無知ではない。


表面的な癒しを求め、満足するのではなく、きよさを追い求める人でありたい。

自由のくびき

f:id:songchi0326:20200709072003j:image

 

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。


マタイ11:29


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


癒しやリラクゼーション、という言葉が当たり前に聞かれるようになって久しい。


ストレスの多い現代人には癒しが必要である、私たちはそう刷り込まれている。


ストレス解消のために癒しやリラクゼーションが必要!と煽られ、そこに巨大なマーケットが存在する。


温泉にゆっくりつかる。美味しい料理を味わう。エステやマッサージは、もはや癒やしを通り過ぎてそれ自体が目的化している感じもする。


もちろん、それらのことはストレス解消になるだろうし、満たされた気持ちになるのも分かる。


私は15年近くアトピーを患っていたが、いろんな原因はあれど、ストレスもそのひとつだったと思う。


あの頃、私はアルコールや煙草を摂取することで、ストレスが発散できると思っていた。部屋ではアロマオイルやインセンスを焚いて、リラックスできていると思っていた。


いま思えば、虚しい行為だったと恥ずかしい限りであるが、当時は至って真面目だった。


そんなとき、この聖句に出会った。

 



1つ前の28節、おそらくこちらの方がよく知られているはず。


すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。


こう語りかけられて、あ、自分のことだと思わない人っているだろうか。


日常に安らぎがない、と感じている方に知ってほしい聖句である。


休ませてあげると言われたイエスは、続く29節で、イエスのくびきを負い、イエスから学ぶことを求める。


28節と29節はセットで理解しないといけない。


カラダが休まるのではない。たましいに安らぎを得る、とある。



くびきをかけられた牛の姿は、十字架を背負って歩くイエスの姿と重なる。くびきを負うとは、自らの罪の性質を認識することである。


一方で、くびきを逃れるというように、くびきは自由を束縛するものでもある。しかし、イエスのくびきは、自由を束縛するのではなく自由を得させるものである。


なぜなら、イエスのくびきを負うことで、向かうべき道が正され、イエスに倣う生き方を求めるようになるからである。


罪のくびきか、イエスがもたらす救いのくびきか。重いくびきか、軽いくびきか。罪の奴隷か、自由の奴隷か。


私のたましいの救いは、罪のくびきを捨て、イエスのくびきを負うことによってなされた。


20年前の自分を思い出しながら、そう確信する。

約束を守る方

f:id:songchi0326:20200701012405j:image

神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。


ローマ人への手紙 4:21


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


この聖句、主語がない。誰のことか?


正解は、アブラハム


アブラハムの物語を読んでいると、そのクライマックスは、息子イサクを生贄として献げるシーンであろう。


創世記22章1-14節に、詳しく記されている。


http://seisho-shinkaiyaku.blogspot.com/2010/05/blog-post_5275.html


久しぶりにこの箇所を読んだとき、ハッとさせられた。

 

これまでボンヤリとしか捉えていなかったことが、ハッキリと分かった。



アブラハムのイサク奉献は、父なる神がひとり子なるイエスを生贄とすることと、完全にオーバーラップする。


(1)イサクが薪を背負って歩く→イエスが十字架を背負って歩く


(2)イサクを縛り薪の上に載せた→イエスが十字架に架けられる


(3)献げた(死んだ)イサクがアブラハムに戻された→死んだイエスが復活した


この中で、(3)の理解が難しい。


アブラハムにとっては、神からイサク奉献を命じられた時点で、すでにイサクを死んだものと捉えていた。


しかし、死んだイサクは甦ることが分かっていたのではないか。いや、そう確信していたのではないかと思う。


なぜなら、アブラハムのセリフに「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」とあるからだ。


戻ってくる!と使いの者に告げているのだ。



このアブラハムの強靭な信仰は、いかにして形成されたのか? それが、ローマ人への手紙4章で解説されている。


アブラハムがイサクを授かったのは、彼が1百才のとき。


あなたの子孫を天の星のように、海の砂のように増やそう!と、神から祝福を受けたものよ、一向に子どもを授かることがなかった。


それでも決して不信仰になることはなく、かえって信仰が強められた。


故郷から約束の地へ旅立ってからの日々、神から受けた数々の恵みを忘れることはなかった。


神は、無いものを有るものにできる。神は、約束したことを実行する力があると、確信していた。


息子イサクと父アブラハムの関係は、ひとり子イエスと父なる神の関係と重なると、記した。


と同時に、アブラハムの信仰、そして義は、神に対する私たちの信仰のあり方を示す型でもある。


神からの恵みに対して、私たちは「神は約束したことを必ず実行される方である」と信じる信仰を持って応答する者だ。


久しぶりに創世記を読もうかなと思った。


神の人類救済のプランがどのように展開されているかを知るには、創世記を紐解くのが一番だ。

指折り数える

f:id:songchi0326:20200625004904j:image

同じように、あなたがたもキリストイエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。


ローマ人への手紙 6:11


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


県をまたぐ移動が可能になり、ようやく営業活動再開となった。


すでに東北や九州のメンバーは、5月末の緊急事態宣言解除から徐々に営業を再開していた。しかし、東京のメンバーは在宅勤務が続き、我慢の期間だった。


週に一度か二度出社する以外は、自宅でテレワーク。家族が在宅であるのが幸いで、それがためにペースを崩すことなく仕事ができた。


今日は何人に電話をする、資料を作成する、何時からWeb会議がある、そのように、予めその日の仕事内容を家族に伝える。自分にとって、それが在宅勤務でいいパフォーマンスを発揮するコツだった。


独りだったら、恐らくそうはならなかっただろう。


自制心が低下し、やることに手が付かず、無為に過ごしてしまっただろう。



自分を制することができない状態、それは、罪の中にいる状態であると言える。


自制心を失っているときの自分は、何らかの奴隷になっている。


たとえば、怒りに我を忘れているとき、不安や悩みに胸が苦しくなるとき、そして欲望にまみれているとき、そのようなとき、自分を律することができず、コントロール不能に陥る。


これが罪である。


私はクリスチャンでありながら、いとも簡単に罪に陥る者だ。そして、後悔しては嘆くのだ。また私は愚かなことをしてしまった、と。


罪に死んだと分かっていても、罪の性質を免れるものではない。それが苦しい。


けれど、そう、これこそクリスチャンだからなのだが、罪の中に留まり続けることがないのは救いである。



今回の聖句の直前で、パウロはこう言っている。

 

罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました、と。


罪を赦され、神に生きることを選び取ってもなお、罪の性質を免れない私は、このパウロの言葉に涙が出る。


罪を赦されるためには、まず自分が罪深いことを認めねばならない。これを認罪と言うが、認罪があってこそ、赦しがある。


だから、罪が多いほど恵みが多いのなら、罪に留まっていた方がいいじゃないか、と考えるのは間違っている。


パウロはさらに、罪に死に神と生きるものであることも認めなさいと言う。そうなのだ、罪深さを認め、そして罪赦されたことを認め、罪に対して死んだことを認めるのだ。


英語を見てみると、認めることをrecognizeでもconsiderでもなく、countを使っていた。つまり、認めるとは指折り数えることである。


罪に死に、神に生きる。神から一方的に注がれた恵みに対して、私たちは信仰で応答しよう。


もはや罪の奴隷にはならない。


赦された喜びを感謝しつつ、指折り数えよう。

神の家族

f:id:songchi0326:20200618090744j:image

見よ。なんという幸せ
なんという楽しさだろう。
兄弟たちが一つになって
ともに生きることは。


詩篇133:1


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


3年と少し前、私が通う教会に、イギリス人宣教師ファミリーがやってきた。


驚くほど日本語が堪能で、聞けば、東京に来る前に札幌に長く住んでいたのだそうだ。


なるほどね。


日本人への伝道に使命を感じて、遠くイギリスから極東の地にやってきたわけか。


札幌では地域伝道、東京では大学生への伝道に尽力された。


同じ子どもを持つ家庭として、家族ぐるみで仲良くさせていただき、キャンプに行ったり、食事会をしたり親しく交わった。


ご主人とは聖書をともに読んだり、祈ったりしてきた。彼からは、みことばを通して、何度も励ましてもらった。


そうして楽しく過ごしてきたファミリーが、イギリスに帰国した。帰国にあたり企画したお別れ会(もちろん三密を避けて)で、彼から贈られたみことばがこの箇所である。



兄弟が1つになってともに生きること。そのなんと楽しく、なんと幸いであろう。


1つになることを、聖書ではよく一致すると言う。英語ではin unityである。


思いを1つにすること、思いが一致すること。このような麗しい関係が、神を信じる者の間に成立する。


この世では、それぞれに家族が与えられている。それとは別に、いや、その延長になるかもしれないが、キリストにある家族と言うこともできる。


究極的には、キリストが世を支配するときに、このことが実現するのだが、今は、そのための前フリというか、訓練期間のようなものだ。



この聖句の続き、2節3節、そこには


それは頭に注がれた貴い油のようだ。
それは、髭に、アロンの髭に流れて
衣の端にまで流れ滴る。
それはまた、ヘルモンから
シオンの山々に降りる露のようだ。
主がそこに
永久の命の祝福を命じられたからである。


とある。


兄弟の一致、神の家族のことが、川の流れや油の流れに例えられている。


川や油が上から下へ流れていくように、聖霊が私たちをつないでいき、一致するよう導いていく。


その流れは尽きることがない。


流れていくうちに、その流れは徐々に勢いを増していく。まわりを巻き込んでいく。


そのように、神の家族は広がっていく。


このイメージ、このイラストレーションを大切にしたい。


聖霊は私たちの助け主、導き主だ。


そう、使徒パウロもこう励ましている。


私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。
自惚れて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりしないようにしましょう。
(ガラテヤ5:25-26)