聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

善意の人

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善意の人は祝福を受ける。自分のパンを貧しい者に与えるからだ。

箴言 22:9

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善意の人は祝福を受ける。

この聖句、サラッと読んでしまうとさほど気にならないが、はたして善意の人ってどんな人だろう。

人の善意とは言うが、善意の人とはあまり言わないのではないか。わかったようなわからないような。ということで、英訳を見てみよう。

"Whoever has a bountiful eye will be blessed" となっており、一瞬"beautiful" の間違いじゃないか? と勘違いしかけた"bountiful" が気になった。聞き慣れない"bountiful" を調べると「惜しみない・気前よい・慈悲深い」といった意味があった。

なるほど、善意の人とは「他人に対して情けや憐れみをかけられる人」ということか。

貧しい者に自分のパンを与えるというシンプルな行為、つまり善行は、善意があってこそである。逆に考えれば、善意のない見せかけの善行は祝福を得ないということだ。

神は、行いだけではなく、その内面をみられる。

ちなみに、この聖句は直前の句と対になっている。

不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。こうして彼への激しい怒りのむちは終わる。(箴言 22:8)

聖書の記述でよく見られる「種まき+刈り取り」の比喩である。不正という種を蒔くと、災いを収穫する。

そうは言っても、現実として世の中には不正が蔓延っている。不正の種をあちこちにバラまきながら、なおも平然としている者が多いのも現実。いやむしろ、そうして成功者になることを咎めない現実の世界こそわざわいか。

このようなとき、クリスチャンとして必要なのは、視野を広く、視点を深く、そして見る範囲を長くすることだ。

種を蒔いてから収穫までの正確な期間は、私たちにはわからない。自然界を支配しておられる神の領域だからだ。同じように、不正の種を撒いた者が、いつわざわいを刈り取るのかはわからない。すぐかもしれないし、何年も何十年も経ってからかもしれない。どころか、生きているうちは刈り取らなくていいかもしれない。

それでも私たちは、不正ではなく善意の種を蒔く。使徒パウロは言う。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ 6:9)

時がくれば神が動かれるのだ。

種蒔きと刈り取りの話。

善意という種を蒔くためには、善意を持っていなければならない。当たり前のことだ。

しかし、どうしたら善意の種を得られるのか、否、そもそも善意の種なんて自分にあるのか?と不安になる。そこで、福音書にあるイエスの言葉を拠りどころにする。

…わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。(中略)そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。(ヨハネ 14:12b-17a)

信じる者に与えられるのが聖霊であった。

聖霊は私たちにさまざまな種を植え付けてくれる。それらの種が信仰によって芽を出し、実を結ぶ。そうだ、聖霊の実のことは、聖書にちゃんと明記されているのだ。「…御霊の実は、愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制です(ガラテヤ5:22-23a)」そう、9つすべて暗記するほどよく知っているではないか。そして、そこに「善意」がちゃんと入っているではないか。

こうして「善意」について、旧約聖書箴言から新約聖書を通して眺めてきた。聖霊の働きに期待して、善意の種蒔きができるように。そして祝福が得られるように。

最後にこの聖句を心に留めたい。

種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。(第2コリント 9:10)

私たちの刈り取り、それは惜しみなく”bountiful” 与えることによって受ける神の祝福なのだ。ハレルヤ!

 

方向転換

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主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」

創世記 16:9
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方向転換を示すみことばである。

聖書を読んでいると、御使いの導きによって進むべき道が示される場面が出てくる。

創世記12章から始まるアブラハムの物語。これがまさに移動から始まる。

主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。(後略)」
(創世記 15:1-2)

こうしてアブラハム(当時はまだアブラム)は、方向転換して、約束の地カナンに向かって出発した。

この物語を少し読み進めてみよう。

アブラハムの妻サラ(当時はまだサライ)は不妊の女であった。サラは主によって胎が閉ざされていると思い、アブラハムに自分の女奴隷ハガルを与えた。ハガルはやがて身ごもった。ハガルは自分が身ごもったことで女主人であるサラを軽んじるようになった。サラはアブラハムに不満をぶちまけ、そしてハガルを追放した。

サラはハガルによって子孫を得ようとしたのに、身ごもったハガルにマウントを取られたことに腹が立って、彼女を追い出してしまった。サラのなんと身勝手なことよ!

と、まったく呆れてしまうが、実はアブラハムも良くない。なぜなら、サラの不満に対して「ハガルはあなたの女奴隷なのだから、あなたの好きなようにしたらいい」と無責任に言い放ったのだから。

そう、どっちもどっちなのであった。

ちょうどこの場面、創世記16章を先週読んでいた。

16章は前半でハガルが追い出され、後半では主の御使いがハガルを助け出す。

ハガル救出の箇所はこうである。

主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。そして言った。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」すると彼女は言った。「私の女主人サライのもとから逃げているのです」主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」
(創世記16:7-9)

サラの元から逃げていたハガルは、主の御使いから語りかけられた。

注意深く読むと、御使いは「どこから来て、どこに行くのか?」と尋ねているのに対し、ハガルは「サラの元から逃げてきた」と答えている。これでは質問の前半にしか答えていない。

行く宛のない逃亡ゆえ、どこに行ったらいいのかわからないから答えられなかったのであろう。もしかしたら、ここへ行きなさい!と具体的な逃亡先を示してもらえることを期待したかもしれない。ところが御使いは「サラの元に戻りなさい」と言った。

しかも、帰ってから身を低くしなさいと言うのだ。「身を低く」は英語では「submit」であるが、これは「(嫌なことだけど)甘んじて受け入れる」とか「服従する」といった意味である。

御使いは苦難の中、つまりサラの元にに戻りなさいと言った。ハガルはそれに従った。戻ってからのハガルの生活について聖書は言及していない。書いてないから想像するしかないが、おそらく御使いの言う通り身を低くして過ごしたのではないかと思う。

ハガルは方向転換した。

サラもサラならアブラハムアブラハムだ。サラによって子孫を与えられると言われていたのに、彼らは主の約束を信じなかった。ハガルは戻った。主の約束を信じた。約束通り子孫が与えられた。方向転換して神に立ち返ったことによって祝福を得た。

神の計画の壮大さと深遠さに触れる。

しかし、その一方で、ハガルの子孫によって始まった光と闇の戦いを覚えて心を痛める。

ハガルの産んだ息子イシュマエルは神によって「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼は、すべての兄弟に敵対して住む(創世記 16:12)」と預言されたように、イスラム民族の先祖となった。

現代に至るまで続くユダヤ教キリスト教イスラム教の争いの歴史はここに端を発する。

それすら神の計画であるならば、神はイスラム民族の方向転換はもちろん、ユダヤ民族やクリスチャンの方向転換をも求めているのかもしれない。

そのための神の切り札こそイエスキリストである。キリストによって神の人類救済計画が完遂する。

エスが語った放蕩息子の悔い改めの台詞が思い出される。

父のところに行ってこう言おう。お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。(ルカ 15:18)

放蕩息子が我に返ったように、女奴隷ハガルが御使いのことばに従ったように、私たちも神のもとに立ち返ろう。

真実なる神のもとに方向転換しよう。

強められよう

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終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

エペソ人への手紙 6:10
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強さに憧れる時代があった。

小学校3年生から柔道を始めた。毎日病院に行くほど病弱だった私を見かねた父親が、半ばムリヤリに地域の柔道少年団に放り込んだ。

色白でぽっちゃり体型の私は運動が得意ではなく、週に3回、月水金と柔道場に通うのがイヤで仕方なかった。

それでも練習を重ねていくうちに、技を覚え、それで相手を投げ飛ばすことに喜びを感じるようになると、徐々に楽しくなってきた。

時代はプロセス全盛期で、道場ではよく、自分のファンのプロレスラーをマネをして、プロレスごっこに興じたりもした。ハンセンとかブロディとか長州とか天龍とか鶴田とか、いま思い返してもヒーローがたくさんいた。

そうして強さに憧れ、少しずつ強さを手に入れていった。そんな自分が嬉しかった。

必ず唱和させられていた「精力善用・自他共栄」の柔道の精神はどこへやら…。手に入れた強さを自分のためではなく世のために使う。それは、小学生にとっていささか難しい崇高な理念であった。

結局、自分の強さを誇る性質は、中高生になっても大学生になっても変わることはなかった。

仕事を失い、健康を損ない、蓄えが底をつき、生きているのがイヤになって、そこまできてようやく強さなんかいらないなと思った。

それを教えてくれたのが聖書だった。

聖書を読むと、特に旧約聖書には強さを誇っていた私が惚れ惚れするような強い戦士がいる。

アブラハムしかり、ヨシュアしかり。士師記に出てくるサムソンなんかはまさに格闘家だし、偉大なる王であるダビデだって勇猛なる戦士であった。

サムソンを見てみよう。

サムソンは自分の心をすべて彼女(デリラ)に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎にいるときから神に献げられたナジル人だからだ。もし私の髪の毛が剃り落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなって普通の人のようになるだろう」(士師記 16:17)

サムソンは自分の強さの源泉が神であることを知っていた。そして、最期の一コマで、サムソンは自分のためではなく、イスラエルの民のために命を献げた。

サムソンは主を呼び求めて言った。「神、主よ、どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください。私の二つの目のために、一度にペリシテ人に復讐したいのです」(士師記 16:28)

新約聖書の時代になると、強さの捉え方が旧約時代と変わってくる。

エスの弟子たち、特に一番弟子のペテロは、強さを誇っていた。それをイエスに嗜められたこともある。一方で、イエスはペテロの弱さを知っておられ、そんなペテロのために取りなしの祈りを捧げた。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ 22:32)

もう一人の弟子であるパウロもまた、かつては強さを誇っており、パリサイ派の急先鋒としてイエスとその取り巻きを激しく迫害した。

そんなパウロは復活のイエスに出会い改心してからは、強さではなく弱さを誇るようになった。

もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。(第二コリント 11:30)

パウロは自らの弱さを自覚していた。自覚していたから誇ることができた。弱さを誇ることが実は一番強いことを知っていた。

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(第二コリント 12:10)

神から来る強さは尽きることがない。強さを受けるためには、自分に欠けたところがないとならない。欠けとは弱さであり、弱さがあるから強さを得ることができる。

これは真理であり、真理を知ることができる者は幸いである。

神の前にへりくだり、神の大能の力によって強められよう。

 

平和の種まき

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あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。

ヤコブの手紙 4:1
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パリ五輪が終わり、日本は79回目の終戦記念日を迎えた。

選手たちが相次いで帰国し、メディアに露出している。オリンピックはアスリートというタレントを使ったショービズだし、巨額のマナーが動いていることも事実。だから、ゆっくり休んでもらいたいけど、ある程度は仕方ないかもしれない。

しかし、だからといってアスリートを政治の道具として利用することはあってはならないし、アスリート個人の信条や主義は尊重されるべきだと思う。

女子卓球の早田ひな選手のインタビュー内容が、一部から猛烈に非難されている。行ってみたいところを聞かれて「特攻資料館に行きたい」と発言したことが理由で。

一方、国内ではそのカウンターとして称賛の声が挙がっていて、結果として炎上している。

表面的なことで是非を判断するのではなく、インタビューの全体から発言の意図や文脈を確認した方がいい。インタビューは7分に及び、当該箇所はその最後の方にある。

https://youtu.be/KN37gNiuEfA?si=Xgh4IOxt9gEIXXTf

アンパンマンミュージアム。あとは鹿児島の特攻資料館に行きたい。生きていること、卓球ができているのは当たり前じゃないのを感じたい」という発言である。

ヤコブの手紙で、著者のヤコブは「戦いや争いは戦う欲望から出てくる」と述べている。

彼女はそのことを実感したのではないだろうか。

スポーツ競技における戦いとは異なる、人と人、国と国との戦いや争いが今も現実にあること、そのために命を落としたり、住むところを失ったり、競技ができなかったり、そうしたリアルを五輪という場で味わったのではないだろうか。

発言のくだりの「生きていること、卓球ができているのは当たり前じゃない」にそれが滲んでいる。

アンパンマンミュージアムと特攻平和会館は、彼女の中ではひと繋がりになっている。やなせたかしは戦争体験者として、作品を通して「平和」を訴え続けた。ミュージアムは福岡にもあるし、知覧は鹿児島だ。きっとなんの違和感もなく捉えていて、自分が生かされていること、卓球ができていることは平和あってのことであると感謝したのだと思う。

それを愛国主義軍国主義と結びつけて批判したり、それに対して右寄りの発言で煽ったりするのはバランスを欠くし、早田選手の思いを踏みにじっている。

今日の聖句の直前にはこう書いてある。

しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。(3:17-18)

早田選手は間違いなく平和の種を蒔いた。

メダリストである彼女が自分の言葉で語った言葉が、多くの人の心を揺さぶった。

言葉尻を捉えて表面的なところで争いが起きてしまうのは悲しいが現実である。それでもその現実から目を背けず、しっかり自分の意見を述べた彼女の強さを称えたい。

彼女の平和を希求する心が、人を動かし、平和を作り出す動きに繋がっていきますように。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ 5:9)

神に栄光、地には平和。御心にかなう人にあれ!

 

まだ十分じゃない

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主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。

第一列王記 19章7節
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パリ五輪が終わった。何が印象に残っているだろう…。

歓喜の涙もいいが、悔しくて流す涙の方が心に刻まれる。女子バスケの馬瓜エブリン、男子バレーの石川祐希、女子競泳の池江璃花子、男子卓球の張本智和と、どれも試合の内容と相まってこちらももらい泣きしてしまう。

そんな中で一番インパクトがあったのが、女子柔道の阿部詩だろう。一瞬のスキをつかれてた谷落としによる一本負け。畳の上で茫然自失になり、畳を下りて平野コーチのもとに崩れ落ち、立ち上がっれなかった。会場中に響く嗚咽。悔し泣きではなく、もはや慟哭であった。

オリンピック連覇がついえたことの悔しさだけではないだろう。背負っていた重圧や支えてくれた人たちの期待、自分に対する不甲斐なさ、もしかしたら泣いている本人すら溢れる涙の理由が分からなかったかもしれない。それほどの号泣だった。

団体戦は大丈夫か?と心配したが、ちゃんと立て直して、いつものキレのある技が炸裂し勝ちを収めたので安心した。しかし、喜びの表情はまったくなかった。

第一列王記に登場するエリヤの話が思い出された。いったん気持ちが萎えてしまうが、力を与えられふたたび戦いに挑むところに、阿部詩を重ねていた。

今回引用した第一列王記の18章には、エリヤの有名な戦いがある。

預言者エリヤと北イスラエル王国のアハブ王との対決。エリアとイスラエルの民、そして450名のバアル信仰の預言者が集う前で、どちらの神が人の手を借りずに犠牲の雄牛を焼き尽くすことができるかを競った。公開対決であるから、いわばオリンピックのようなものだ。

先攻のバアルの預言者たちは、叫んだり踊ったり自分の体を傷つけたりしたが、何も起こらなかった。対する後攻のエリアは、祭壇を築き溝を掘り水で満たして神に祈った。すると主の日が降りささげ物を焼き尽くした。負けたバアルの預言者は皆殺しにされた。エリヤは完全勝利した。

大歓声の中、負けたアハブ王が逃げ帰って、妻イゼベル(旧約聖書最大の悪女であり恐妻)に完敗したことを告げると、イゼベルは烈火のごとく怒ってエリアに対する復讐宣言をした。それを聞いたエリヤは荒野に逃げた。試合に勝った金メダリストが対戦相手の家族に命を狙われる、そんな構図である。

完全勝利を収めたのだから逃げなくてもいいのだが、さすがに疲れたのか、バーンアウトしたのか、エリヤは逃げた。そして神に死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」と。

エリヤが眠っていると主の御使いが来て「起きて食べなさい」と、パンと水を与えた。食べてから再び眠っていると、もう一度主の御使いが来て「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。

エリヤはそれで力を得て立ち上がり、そこから40日間歩いてホレブ山(モーセ十戒を授かったシナイ山と同一)に到着した。

エリヤは神に「もう十分です」と訴えた。それに対して主は「道のりはまだ長い(まだ十分ではない)」と応えた。

エリヤのように成果を出して満足したときや、阿部詩のように懸命の努力が実らなかったとき、私たちはもうこれ以上頑張ることはできない(=It's enough)と下を向く。

そんなとき神は私たちのそばに来て、起きて食べなさいと励ましてくれる。まだまだやることはあるのだから(It's still not enough)と力を与えてくれる。また立ち上がって顔を上げることができる。

団体戦で銀メダルを獲得した日本チーム。阿部詩の表情は相変わらずこわばっていたが、個人戦から団体戦までの数日間で気持ちを切り替えただろうということはわかった。彼女のインスタに個人的な思いが綴られている。引用したい。

負けてから少し経ち、皆さんの温かいお言葉がとても嬉しく、また前向きにさせてくれました。私自身こんなにも多くの方々に応援されていると実感したのは初めてです。感謝しかありません。ありがとうございます! 結果の大切さにこだわり続け歩んできましたが、今回はそれよりももっと大切なものに気づけました。

日頃からサポートしてくださる企業の皆様、いつも出稽古に行かせていただいている大学、実業団の皆様、日本から応援にかけつけてくれた人、私のパリオリンピックまでに関わってくれた皆様に感謝します。

オリンピックとは自分の人生の中で、最高な景色も見せてくれる場所であり、今までに経験した事のないような悔しさを感じた場所なような気がします。また最高の景色を見るために4年間一歩一歩前に進みます。今後とも応援よろしくお願いいたします。

It's enoughと下を向いた彼女は、自分独りで戦ってきたのではないことに気づき、励ましを受け、感謝の気持ちを綴った。It's still not enoughと前を見据えた彼女は力を得て、また新しい一歩を踏み出した。

私たちの神は、荒野に道を荒れ地に川を流れさせる方。心が渇ききっていても潤いを与えてくださる方。イエスキリストが「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とは、まさにそのことである。

4年後のロスでの活躍に期待したい。

 

召しにふさわしく

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さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。

エペソ人への手紙 4:1
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「ふさわしく」という言葉が嫌いだった。

10代のころはこの言葉を聞くと条件反射的に反発していた。4人兄弟の長男である私は、幼いころから「お兄ちゃんらしく」「長男にふさわしく」と育てられた。これが本当に苦しかった。足枷のように感じていた。

それでも表立って反抗することなく、表面的にはグレることもなかった。地域の進学校に進んだら今度はそこで「○○高生にふさわしく」と教師に言われた。しなければならないことではなく、してはいけないことをあえて選択してきた高校生であった。悪いこともたくさん覚えた。1日も早く堅苦しい田舎を脱出して東京に行きたい!といつも思っていた。「死にたいくらいに憧れた花の都大東京~」と長渕の「とんぼ」を口ずさんでいた。

「ふさわしく」と聞くとそんなこんなを思い出す。

しかし、キリストを受け入れた今、「ふさわしく」という言葉は不思議と安心感をもたらす。クリスチャンとして相応しいか?と自問することで、自分を保つことができている。

さて「〜にふさわしく」の英訳を見てみると、in a manner worthy of~ とある。in a mannerは「~という方法で」で、worthyは「価値ある」だから「ふさわしく」となる。mannerは日本語のマナーだから、平たく言えば「お行儀よく」みたいな意味と捉えていいかもしれない。

相応しくというより、行儀よくの方が分かりやすいが、母親が電車の中で騒いでいる小さな子どもを注意している絵が浮かんでしまって、幼い感じがする。

「わきまえて」とした方が大人の嗜みのようなニュアンスが出ていいし、白洲次郎が言っているプリンシプルにも通じて格好もいい。

では、パウロは何に「ふさわしく/わきまえて」ほしいと願っているのかというと、「召し」である。

うむむ、これまた難しいではないか。

聖書で意味が分からない言葉に遭遇したときは、聖書の他の箇所を手掛かりにするという原則がある。その原則に倣って探してみると、パウロが他の箇所でこう言っている。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。(第一コリント 1:26-28)

同じ章の少し前には「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです(1:9)」とある。

召しとは「選び」であり、選ばれたことによって私たちがキリストとの交わりに加えられたということである。

選ばれたからと思い上がってはならない。私たちは「愚かな者・弱い者・取るに足らない者・見下されている者・無に等しい者」として選ばれたのである。

パウロは、今日の聖句に続けて、召しにふさわしく歩む上での重要な特質として「謙遜・柔和・寛容・愛・忍耐・平和」を身につけて歩むよう勧めている。

これらはまさに御霊の実である。

御霊の実とは、聖霊の働き(導き・学び・励まし・癒し…)によって結実する信仰の果実のことである。パウロによると御霊の実は9つある。

御霊の実は、愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制です。このようなものに反対する律法はありません。 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(ガラテヤ5:22-25)

神に召された私たちは、御霊の実を身につけてクリスチャンとして相応しく(わきまえをもって)この世を歩んでいきたい。

御霊の実はまだ実っていなかったり、種だったりするかもしれないが、それすらも自覚をして、そして熱心に求めていこう。

 

主に対してするように

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何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。

コロサイ人への手紙 3章23節
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阪神タイガースマット・マートン氏の講演を聴いた。

知らなかったが、彼は敬虔なクリスチャンであった。日本にいるときも、選手生活を終えてからも、いつも主とともに歩んでおられた。

彼が心に留めているいくつかのみことばを示し、それにまつわるエピソードや自分の考えを話してくれた。そのうちの1つが今日の聖句だ。マートン氏から聞くと、よく知っている聖句も違った印象を受けるから不思議だ。

スポーツ選手は心と身体を鍛える。自分との戦いである。けれど、自分にだけ関心が向いてはいけない。試合になるとそこには多くの観衆がいて、ホームランを放てばともに喜び、三振に終わればともに落胆する。選手もそれに応えるし、その一体感こそプロスポーツの醍醐味といえる。ファンがいなければプロの世界は成り立たない。

見られることを意識するのはプロであるなら当然のことである。

主とともに歩むマートン氏にとっては、試合であっても「主とともに」を実践した。愛用のリストバンドには聖句が書かれており、ある年は「Believe」、またある年は「ヨハネ3:16」であった。

人に対してではなく、主に対してするように…。

コロサイ人への手紙3章はこう始まる。

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらせられたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。(3:1)

このように3章のテーマは「よみがえらされた私たち」である。私たちがキリストとともによみがえらされた者として、どのように生きていくのか、今日の聖句である23節に至るまでに、かなり具体的にいくつも示されている。列挙しよう。

・淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像崇拝です。(3:5)
・怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。(3:8)
・あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。(3:12)
・互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(3:13)
・キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。(3:16)
・妻たちよ、主にあるものにふさわしく、夫に従いなさい。(3:18)
・夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。(3:19)
・子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。(3:20)
・父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。(3:21)

そして「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい(3:23)」に続くのである。

これらの具体的なことを、私たちはよみがえらせられた者として実践する。

と言われても、はいわかりました!となかなか言い切れるものではない。だからこそ、そうできるように祈るのだけど。

主に対してするように行うとは、言い換えればWWJD、つまりWhat would Jesus do?(イエスならどうする?)と自らに問うて行動する、ということではないか。

妻に辛く当たってはならない、愛さねばならないと、聖書に書いてあることをまるでルールブックや戒律かのように取り扱うのはまったくもってナンセンスだ。

そうではなく、神の前に正しいと思うことを自然な振る舞いとして行いたい。

今日の聖句の続きはこうある。

あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。(3:24)

人に対してではなく、主に対してするように。人に気に入られるためではなく、イエスならどうするだろうと、神視点で考えられるように。人に仕えるのではなく、キリストに仕えるように。