聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

強くあれ

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強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
 
ヨシュア記 1:6
 
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申命記の最後でモーセが天に召された。
 
モーセの死については、聖書にこう書いてある。
 
こうしてその場所で、主のしもべモーセは主の命によりモアブの地で死んだ。主は彼を、ベテ・ペオルの向かいにあるモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知る者はいない。モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。(申命記 34:5-7)
 
モーセが死んだのは120才で、それは主の命であり、葬られた場所が知られていない。墓がわからない(あるいはない?)とは驚くばかりだ。
 
モーセといえば、旧約聖書の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の5つはモーセ五書と言われている。そう、著者はモーセである。
 
これだけでもモーセの偉大さが分かる。
 
モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は、主が顔と顔を合わせて選び出したのであった。(申命記 34:10)
 
と書かれている通りである。
 
なお、申命記のラストはモーセが死んでいるから、著者は次のリーダーであるヨシュアと言われている。
 
ちょっと寄り道したが、本日の聖句に移ろう。
 

 
申命記に続くヨシュア記では、リーダーがモーセからヨシュアに交代する。
 
約束の地に入ったイスラエルの、いわば戦いの20年間がここから始まる。その冒頭で、モーセを召された主が次のリーダーであるヨシュアに告げた言葉が、今日の聖句である。
 
強くあれ、雄々しくあれ。
 
この言葉を主から告げられたとき、ヨシュアは畏れを感じ、そして奮い立ったことだろう。モーセから任命されていたから、リーダーとしての自覚もあっただろうが、そのときとは比較にならないレベルで驚いただろう。
 
しかし、実はこの「強くあれ、雄々しくあれ」は、モーセが生前、ヨシュアに与えた言葉であった。
 
それからモーセヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの目の前で彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の父祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである」(申命記 31:7)



 
モーセヨシュアに告げた言葉を、神が真似たのか? 違うだろう。
 
理由は2つ考えられる。1つは、モーセもまた過去に主から「強くあれ、雄々しくあれ」と叱咤を受けており、それをヨシュアにも使った、ということ。
 
もう1つは、モーセヨシュアに告げた言葉を、神はあえて用いて、ヨシュアを激励した、ということ。
 
私はどちらも理由だと思う。
 
神はモーセの120年の人生で何度となく「強くあれ、雄々しくあれ」と励ましてきたはずだ。エジプトの王子として育てられた最初の40年間、荒野に逃げて遊牧民として過ごした次の40年間、そしてイスラエルのリーダーとして出エジプトを果たした最後の40年間、さまざまな場面で何度となく。
 
だから、モーセは何の違和感もなく、当たり前のようにヨシュアに「強くあれ、雄々しくあれ」と告げたのであり、その言葉に励まされ、強められることがわかっているから、神はモーセに告げたのと同じようにヨシュアを叱咤したのではないか、と。
 
そして、その神が、モーセヨシュアを叱咤激励した神が、私たちにも告げるのだ。
 
強くあれ、雄々しくあれ、と。
 
力が湧いてくる。
 

追憶

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愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
 
コリント人への手紙 第一  13:4
 
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1週間フルで北海道に出張だった。
 
いつもなら先輩と二人で札幌市内を営業してまわるのだが、今回はそれとは異なり、単独で札幌以外にも出向くことになった。
 
用意されたのは、札幌を起点に函館まで南下して行く道南コースと、旭川から帯広、釧路へ抜ける道東コースの2つ。
 
三浦綾子ファンの私ならば、迷わず道東コースを選ぶはずであろう。しかし、道南コースを選択した。
 
函館に行きたかったのだ。
 
25年前に北海道を独りで旅したとき、旅はカーフェリーの到着港である小樽から始まり、最後は函館で終えた。函館からは陸路でひたすら高速道路で帰った。
 
その旅で一番印象に残っている街が函館であった。だから、また行きたいと思ったのだ。
 

 
この話が今日の聖句とどう関連するのか?
 
道南コースを選んだとはいえ、旭川に行きたかった気持ちを消すことができず、出張中、ずっと三浦綾子さんに思いを馳せていた。
 
三浦綾子さんなくして、私はクリスチャンになることはなかった。彼女の作品に出会っていなければ、聖書も知らず、神の存在も知らなかった。
 
塩狩峠」を読んで涙して、「氷点」を読んでその描写の細かさと的確さに驚愕し、以降、三浦作品にドップリ浸かり、エッセイから小説まで読み漁った。
 
三浦さんの、たしかエッセイだったと思うが、そこでこの聖句が紹介されていた。
 
いわゆる「愛の讃歌」として知られている箇所で、結婚式でも必ず読まれるお馴染みの聖句だ。
 
この聖句にある主語の「愛」は、「神」のことである。なぜなら「神は愛」だからである。
 
聖書にも
 
なぜなら神は愛だからです。
(第一ヨハネ 4:8)
 
とある通り。
 
神は忍耐強く、情け深く、妬まず、自慢もせず、そして高ぶることはない。
 

 
三浦さんは、主語を「自分」に読み替えてごらんなさい、と言う。
 
さて、どうなるかというと
 
自分は忍耐がなく、情けもなく、妬んでばかりで、自慢したがりで、すぐに高ぶってしまう。
 
となる。
 
そのときの自分は、読み替えてみて愕然とした。
 
あれから20年近く経つが、忍耐強く、情け深く、妬まず、自慢せず、高ぶらず生きているか?と問われたら、いや、そうではないと答える。
 
しかし、忍耐強くあろう、情け深くあろう、妬まないように、自慢しないように、高ぶらないようにと、心がけているから、それだけでも成長したと言ってよい。
 
もちろん、そうあらせてくださいと、あなたのように振る舞えるようにさせてください、と祈る。
 
三浦さんと出会い、神を知り、生き方を変えられた。次に北海道に行くときは、今度こそ道東コースを選ぼう。
 

復讐は誰のもの

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愛する者たち、自分で復讐してはいけません。
神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。
「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」
主はそう言われます。
 
ローマ人への手紙 12:19
 
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夕食を食べながらFather Brownを観る。
 
前情報を持たず何気なく観始めたこの番組に、最近すっかりハマっている。
 
登場人物のキャラ設定、ストーリーの面白さ、美しいイギリスの景色とQueen English…このドラマの良さはいくつも挙げられる。
 
ブラウン神父役の俳優は、Harry Potterのロンの父親役の方であった。ふくよかな風貌で、酒を飲み競馬を愛する、ユニークな神父役がよく似合っている。
 
私はプロテスタントの信者なので、ドラマの中に出てくる教会、なかでもconfession =告解は、カトリック独自のものだけに興味深い。ブラウン神父は地域の信者の罪の告白を受け、秘匿義務がある。
 
ブラウン神父は、人を殺めてしまった者に悔い改めを迫るとき、サラッと聖句を入れる。聖書に対する共通理解があるから成り立つことで、罪を犯し絞首刑を受ける者にさえ、悔い改めの機会を提供する。
 
先日の回は、濡れ衣を着せられ放火犯として囚人となった女性が、服役後、自分に罪を被せた人たちに復讐していくというストーリーであった。
 
ブラウン神父は、彼女の復讐を知ったとき、今日掲げた聖句をもって、悔い改めに導いた。
 

 
この聖句、もとは旧約聖書レビ記」にある。
 
あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。
レビ記 19:18)
 
パウロは律法学者であったから、間違いなく「レビ記」の聖句は誦じていたであろう。
 
だから、復讐はダメだと説いた。
 
また、パウロは別の箇所でも同じように述べている。
 
私たちは「復讐はわたしのもの、わたしが報復する」、また「主は御民をさばかれる」と言われる方を知っています。
(へブル 10:30)
 
このように復讐という行為は、神さまがするものである。
 

 
私は観たことがないが、その昔「復讐するは我にあり」という名作があった。
 
我とは、本来、神を指すが、このタイトルだけを取り出して、我を自分と置き換える誤用が流布していると思う。
 
野球の松坂大輔の活躍で「リベンジ」という言葉が一般化し、半沢直樹の影響で「倍返し」が流行した。これらはいずれも「やられたらやり返す」「目には目を」の考えである。
 
これを同害報復という。
 
しかし聖書はそう言っていないのだ。復讐は人間がするのではなく、神の領域なのだ、と。
 
エスもこう言っている。
 
「目には目を、歯には歯を」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
(マタイ 5:38-39)
 
ブラウン神父もまた、罪を犯した者、復讐に心を奪われている者に対して、復讐を禁じ悔い改めに導く。
 
私たちもまた、日々の生活の中で、仕返しをしてやりたいという邪念に取り憑かれることがある。けれど、それは神さまに委ねて、神のなされることとして転嫁しよう。


復讐は神のもの。
 
 

展望する

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朝にあなたの恵みを聞かせてください。
私はあなたに信頼していますから。
行くべき道を知らせてください。
私のたましいはあなたを仰いでいますから。
 
詩篇 143:8
 
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7の倍数で人生を振り返るって話、以前にしたことがあるだろうか。
 
7才、14才、21才…と、7年刻みで、自らの歩みを振り返る。7の倍数にはなんの根拠もなく、あれはたしか人生に行き詰まっていたときだろうか、持て余した時間に自分の過去を時系列で思い出していたとき、たまたま7の法則に気付いて、1人唸ったものだ。
 
今また振り返っても、たとえば28で妻に出会い結婚を決意したり、35で娘を授かりいまの会社に転職を決めたり、42で新しい住まいを手に入れたりと、法則はたしかにある。
 
いいことばかり挙げたが、その裏では闇も当然あって、28では失業して、35でも失業して、42では大好きな2人の祖母を一度に失った。他にもあるがここには書けない。
 
49の昨年は、慣れ親しんだ営業部から社長肝入りのマーケティング部門の責任者に抜擢された。またビジネススクールに通い始め、修士課程で学ぶようになった。
 
0-7才を第一段階、8-14才を第二段階のように言うならば、50-56才の現在は第八段階に入ったことになる。キャリア論的には第二の人生を考える時期に入った、とも言える。
 

 
そうして区切っていったとき、私の人生を大きく変えたと言えるのは、28でクリスチャンになろうと決心したことだ。これによって人生観や世界観が180度転換したから。
 
今日の聖句で「私の行くべき道を教えてください」とダビデが神に語った気持ちが、歳を重ねるほどに沁みてくる。
 
詩篇143篇は「主よ、私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって私に答えてください」と、ダビデが神に呼びかけるところから始まる。
 
この姿勢はクリスチャンの基本だと思う。
 
そして、私が過去を振り返ったように、ダビデもまた「私は昔の日々を思い起こし、あなたのすべてのみわざに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています」と、神と歩んだ過去の日々を思い出している。
 
私は神を信じてからまだ20年と少しにしかならないが、それでも過ぎた20年を思い起こすと、神が私の進むべき道を示してくださったと思わずにいられない。
 

 
自分が将来どうなりたいとか、どうありたいとか、どんな仕事をしたいとか、どんな人生にしたいとか、具体的に描くことは大切だ。
 
最近は20代や30代のみならず、50代や60代になっても自分のキャリアをデザインすることを求められるから、自分がどうしたいかをより具体的に考え(させられ)る機会は増えているだろう。
 
事実、ミドルシニア・クライシス(日本語の「中年の危機」はさすがに生々しすぎる…)といった言葉は何年も前から聞くし、日本人の平均年齢は現在48.6才で、世界で2位の高齢である。
 
90年代は37.7才だったから、わずか30年間で平均年齢が10も跳ね上がったことになる。人生の後半をいかに生きるかは、誰にとっても最重要課題ということだ。
 
晩年のダビデが、神を信じ敬い、自分の道を神に明け渡したように、私もまた、神に心を委ねて「私の行くべき道を教えてください」と言って生きていきたい。
 
God will make a way.

 

新しい門出

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妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。

コロサイ人への手紙 3:18-19
 
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数年ぶりに結婚式に参列した。

互いに愛し合う2人が結婚を披露する場面に招かれること、これほどの喜びはない。

どんな2人にも出会いから、愛が芽生え結婚を決意するに至るまで、オリジナルのストーリーがある。最近は披露宴でショートムービーのように紹介してくれるから、感情移入しやすい。

おまけに年齢を重ねるに連れ涙腺も緩くなるものだから、いとも簡単に泣けてしまう。

1つだけ、あった方がよかったなと思うのが「誓い」である。いや、あるにはあったのだが、人前式だと参列している人たちを証人として誓うことになり、これがどうもしっくりこない。

本日、私たちは皆さまの前で結婚の誓いをいたします。 今日という日を迎えられたのも、私たち2人を支えてくださった皆さまのおかげです。 これからは2人で力を合わせて困難を乗り越え、喜びを分かち合い、 笑顔あふれる家庭を築いていくことを誓います。 未熟な2人ではありますが、今後とも末永く見守っていただければ幸いです。

で、一同拍手、それで証人というわけだ。

ただ、人に誓いを立てるのは実に儚いと思う。もちろん結婚を否定するのではないから、誓います!と言われたら、喜んで拍手はする。

人前で誓わずとも婚姻届を出せば結婚は成立するのだから、そもそも「誓い」はパフォーマンスなのかもしれないという思いもある。

こうしたこの世の考えを思い巡らしながら、クリスチャンの結婚のことを考えていた。

新郎A、あなたはBを妻とし、健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しいとにも、これを愛し敬い慰め合い共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?

私も20年前に教会式で、この誓いを神の前に立てた。

教会にも参列者はいるが、あくまで夫婦となる2人が神の前で誓いを立てたことの証人であり、2人が結婚したことの証人ではない。

いま改めて文字で読み返してみると、過ぎた日々を振り返り、この誓いを守れているかと自問してしまう。

簡単にできることを誓っても意味がないから、ムリなのは分かるけど、目指すべき方向として人生を照らす灯のように掲げているのかもしれないなと思った。

さて、コロサイの信徒に向けて記された夫婦の務めは至ってシンプルであった。

妻には「クリスチャンに相応しく夫に従うこと」を、夫には「妻を愛し辛く当たってはいけないこと」を奨励する。

ここにある「相応しく」が一番大切である。

相応しくといっても、いろんな意味がある。人によって解釈もさまざまだから難しいが…。

迷ったら、WWJD = What would Jesus do? と問い掛けたらいい。

私たちには相応しさの模範としてイエスキリストが与えられている。聖書に描かれているイエスの教えや行動から、クリスチャンとしての相応しさを知ることができる。

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。(マタイ22:39)

誓ったからと言って、愛することを自分だけでやろうとするのではなく、また相手に求めるのでもなく、イエスに倣い、言葉と行動に相応しさを纏えるように。

初々しい2人の姿を見ながら願う。

我力に頼らず、神さまの力に依り頼むことができますように。


 

羊飼いと羊

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盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
 
ヨハネ福音書 10:10
 
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abandon。
 
大学受験ときに使っていた単語帳の最初のページにあった単語。動詞で「捨てる・やめる」、名詞だと「自由奔放・身勝手」いう意味がある。
 
今日の聖句で「豊かに」にあたる英語はabundantlyであるが、abandonと abundantが混乱して、うまく意味が取れなかった。
 
紛らわしい単語の代表みたいなものだ。しかも意味がまるで異なる。 
 
けれど、ただ意味がわからなかったでは終わらせたくないから、なんとかしてこの2つの単語を意味をもって繋ぎ合わせ、記憶したいもんだと考えた。
 
そしてそれは意外に楽しい時間であった。
 

 
今日取り上げたヨハネ福音書10章10節の前後を見てみる。
 
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。(10:9)
 
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。(10:11)
 
ここで「わたし」とはイエスのこと。つまりイエスは、門であり、牧者(つまり羊飼い)である。
 
もう1箇所、有名な詩篇23篇の冒頭を取り上げる。
 
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水際に伴われます。(詩編23:1-2)
 
ここでも主は羊飼いとある。羊飼いである主が牧場に伏させたり、水際で憩わせたりするのは当然ながら羊であり、詩編の作者であり自らも羊飼いであったダビデは、「私」を羊にたとえて、この詩を謳った。
 

 
では、ヨハネ福音書10章と詩篇23篇、そしてabandonとabundantを統合してみよう。
 
羊は、日本では可愛い動物のように思われているが、実は頑固で攻撃的で自由奔放である。なかなか言うことを聞かず、自分勝手で、羊飼いなしでは何もできない存在である。
 
つまり、羊はabandonであり、abandonな羊は、まさに私たちそのものと言える。
 
羊飼いである主は、私たち羊を盗みや殺しから守ってくださる。しかも、命を懸けて守ってくださる。
 
ただ、羊は羊飼いの言うことを聞き、命を得るための門から出入りしなければならない。そうしなければ、羊飼いの守りは受けられないからだ。
 
主は私たちを救いに至らせるために、門まで連れてきて、そこから出入りするようしてくださる。そうすれば、私たちは主から豊かな祝福を得ることができる。
 
自由奔放(abandon)な私たちは、主に導かれ豊かな(abundant)いのちを得る。
 
自分中心を捨て、神さまを中心に据え、そして豊かないのちを得よう。
 

喜び踊ろう

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あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
 
ペテロの手紙 第一 1:8
 
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1と8。
 
これ、我が家のラッキーナンバーである。
 
結婚記念日は10月8日、その5年後に生まれた娘の誕生日は1月18日、その直後に東京に引っ越してきたら番地は1と8の組み合わせ、とそんな具合。
 
そんな我が家のラッキーナンバー聖句を取り上げてみた。
 
なぜなら、祈ってきた娘のホームステイ先の引っ越しが思ったよりも早いタイミングで叶えられたからだ。
 
娘の状況を知って、すぐに受け入れを申し出てくれたあるクリスチャンfamilyが、ホストファミリーとして必要な手続きを迅速に進めてくださった。
 
娘の状況を知って、現地の留学生受け入れ団体のディレクターが、いくつかの必要なステップをショートカットして最短で安全に移れるようにしてくださった。
 
こうしてタイミング、人、場所のすべてがピタッと噛み合って、あっという間に引っ越しが叶った。
 
すべての出来事にはときがある、まさにその通りだった。
 

 
私たち夫婦は、第一ペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」を覚えて祈ってきた。
 
祈りは聞かれた。
 
いや、祈ってるときにすでに神は働かれていた。
 
私たちが試練だと認識しているときに、もうとっくに脱出の道を与え、そして動かれていたのだ。時も場所も人も完ぺきに備えられていたのだ。
 
快く受け入れてくれたクリスチャンfamilyからは、心温まるメールが届いた。
 
She has been with us for 2 days now and is happy in our house. God answered prayer! We spent some really warm days in our backyard all together and we’ve taken her twice to the shopping mall. She plays on the badminton team/club. She is having a good time with our daughter and we help her improve her English daily. The girls brought another Japanese girl to church.
 
モールに連れて行ってもらったこと、両耳にピアスを開けたこと、はじめてWendy'sに行ったこと、友だちの日本人留学生を教会に誘ったことなど、娘からも喜々とした様子で写真付きのLINEがあった。
 

 
ペテロはこの手紙を小アジア(いまのトルコ)にいる信徒に向けて送った。
 
今日取り上げた箇所から少し遡って読んでみると、彼の地の信徒たちは試練の中にいたことがわかる。
 
ペテロの励ましは実に力強い。
 
今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(第一ペテロ1:6-7)
 
ぺテロが金や精錬といった言葉を使うのにはちゃんと訳がある。それは、中東のこの地が昔から金や銅などの鉱物や精錬で有名な土地だったからである。
 
この地に住む人に、金より高価だと言えば、彼らは金鉱山から金を発掘し精錬する工程をすぐに想像し、その金よりも高価であることを誇らしく思うはずだ。
 
この手法は、イエスも使った。当時の人々に御国の教えを伝えるために、羊や鳩といったありふれた動物、からし種やパン種といった食物を用いた。容易にイメージできるから、子どもでも簡単に真理を理解することができた。
 
信仰は金よりも高価で、それは終わりのときに称賛と栄光と誉れをもたらすって、これは大いなる祝福である。
 
ペテロが言うように、私たちはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っている。
 
いつか一緒に踊ろう。