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ワケあって今後はnoteに綴ることにします。6年近く「はてなブログ」にお世話になりました。長い間ありがとうございました。
聖書を愛する営業マンhttps://note.com/biblical_sales
主のことば

草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。
イザヤ書 40:8
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父と義母の誕生日があり帰省した。
80才で傘寿を迎えた父と、83才の誕生日を迎えた義母。生まれ故郷に帰って、2人をお祝いすることができて良かった。
9月中旬とはいえ、厳しい残暑であった。晴れ渡った青空と白い雲を仰ぎ、遠くにそびえる山々を眺め、風になびく青々とした稲穂を香り、穏やかに流れる川の音に耳を澄ませた。
この美しき世界を創造された神の素晴らしさよ。
高校卒業まで過ごした地元を懐かしく感じつつ、あの頃の自分を思い出した。神の存在など知りもしなかった。早く田舎を脱出して東京に行きたかった。自分のことしか考えてなかった。
高校卒業から7年後、大学を卒業して社会に出たものの身も心もボロボロになって地元に逃げ帰った。そんな自分を、あの頃のままの自然がありのままを受け入れてくれた。
そして、神を知った。
*
私が神を求め、神を見つけ、神を知り、神を信じた。そう思っていた。
けれどそれはまったく違っていて、私が神を知らなかっただけで、神は私をずっと知っていた。
詩篇にこんな聖句がある。
まことにあなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。生まれる前から私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときからあなたは私の神です。
詩篇 22:9-10
これを知ったときは衝撃だった。
また、神が預言者エレミヤを召命したときの聖句も驚きであった。
わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。
エレミヤ書 1:5
*
神は「ことば」によってこの世界を創造された。創世記に書いてある通りだ。
世界を創った神は、私たち人間も同じように造られた。
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
創世記 1:27
とある通りである。
被造物である自然は常に変化する。青々とした草はしおれ、鮮やかに咲いた花は散る。私たち人間も必ず死を迎える。
造られたものはいつか滅びる。けれど時間や空間を超越しておられる神は永遠なる存在で、神の「ことば」は永遠である。
そのことを知ったことで、私の心の安定がある。
父と義母の誕生日を祝い、豊かな自然に感謝し、そして創造主である神を褒め称える。
幼子の成長

幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。
ルカの福音書 2:40
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娘を連れてハンドメイドマルシェに出掛けた。
というのも、最近娘が羊毛フェルトを使った作品に凝っていて、作家として出品したい思いが日増しに強くなっているという話を聞いたからだ。
こういう話は親として嬉しい。
趣味の延長で小さく始めてもいいし、モール型のECに出品してもいい。さらに大きく展開することを想定するなら、法人化してビジネスとして取り組むことを考えてもいい。少なくとも私はそこまで考えている。その手始めとして、クラフト作家が一堂に会するイベントに連れて行ったというワケだ。
大きなホールに350のブースが並び、クラフト作家が手掛けたいろいろな作品が並んでいる。アクセサリーが一番多かった印象で、それ以外には、アパレルやインテリア雑貨などもあった。2周して、いくつかのブースで作家の方と話をした。
今回は購入目的じゃないから、何も買っていない。
それより、ブースの作り方、売れる売れないの違い、スタッフの対応、商品陳列の仕方など、自分がこのマルシェで出店するとしたら、という視点でまわった。そして、それらのことを娘とディスカッションした。
的確な指摘に舌を巻いた。
*
ただの個人的な日記のように綴ってしまったが、大学生になって自分と普通にビジネスの話ができることに、あぁ成長したなと感慨深いものがあり、そこから今日の聖句を思い出していた。
イエスはすくすく成長した。知恵に満ちてたくましく育った。そして、神の恵みがいつもイエスとともにあった。
イエスが生まれたときのことは非常に詳しく記述されていて、ルカ2章の前半は、クリスマスの時期になると必ず読まれるし、ページェント(降誕劇)でも扱われる。
一方で、イエスの幼年期や青年期のことはまったく記されていない。続く3章になると、イエスはもう30才になっていて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受け、いわゆる公生涯をスタートする。
だから、私たちは公生涯を始めるまでのイエスについては、2章でしか知ることができない。あまりにも情報が少ないから、私たちは想像力を駆使して、知恵に満ちたイエス、逞しく成長したイエス、神に恵まれているイエスのイメージを描くしかない。
父ヨセフと一緒に大工仕事をしていただろう、母マリアを献身的にサポートしたことだろう。弟や妹の世話を率先してしたことだろう。
2章の最後にはこう書いてある。ここでのイエスは12才である。
イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。
ルカ 2:52
*
娘と会場を歩きながら、イエスの幼年期や青年期のことを想像していた。
そこからイエスの生涯に思いを巡らせた。
父なる神との関係、自らの存在意義、人の罪を贖うための供えの生け贄、神の計画の受け入れ、再臨の約束、そして十字架の死と復活。
そうして我が娘を眺める。
10才で洗礼を受け、素直に真っ直ぐに成長し、ミッション系の高校を卒業し、大学生になった。クリスチャンとしての活動を推奨する大学だから、学内外でアウトリーチをすることもあるだろう。
ビジネスをするにしても、キリスト教信仰をベースにしたいよね!と話した。社会事業家のような考えを持っているのかもしれない。これからも対話を続けていこうと思う。
イエスの生き方を、私たちは聖書を通して知り、それに倣う者としてこの世に生かされている。私たちは神の忠実なるしもべとして謙遜に、そして従順に生きる。
実に満ち足りた週末であった。
自分を低く

なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
ルカの福音書 14:11
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少し前のことになるが、自社の女性営業から受けた指摘にハッとさせられた。
仕事ができない同性に対する接し方にトゲがあるように思う、当たりがキツいと感じるときがある、と。
そのコメントを聞かされ、しばらく黙って自問した。
するとたしかに思い当たるフシがあった。傍から見ていて気付かれるのだから、当の本人も気付くレベルだったかもしれない。
営業部門の管理職になって久しい。置かれた立場や役職の上にアグラをかいている自分がいる、ということか。
サーバントリーダーを標榜していながら、実際はパフォーマンスの優劣で人を判断していた。見せかけのリーダーシップだったことに気付かされた。
自分の父親と変わらない年齢の私に、恐れることなく進言してくれた彼女に感謝する。
*
そこで聖書に立ち返って、今一度サーバントリーダーについて思索した。
今日掲げた聖句は、パリサイ派(律法主義)のある指導者の家に食事に招かれた場面でのイエスのことばである。
イエスは、客として招かれた人たちが上座を選んでいる様子に気がついて、彼らにたとえを話された。
・結婚の披露宴に招かれたときには、上座に座ってはいけません。あなたより身分の高い人が招かれているかもしれません。
・あなたやその人を招いた人が来て「この人に席を譲ってください」と言うことになります。そのときあなたは恥をかいて、末席に着くことになります。招かれたなら、末席に行って座りなさい。
・そうすると、あなたを招いた人が来て「友よ、もっと上席にお進みください」と言うでしょう。そのとき、ともに座っている皆の前で、あなたは誉れを得ることになります。
・なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
ルカの福音書 14:7-11
これは、旧約聖書にあるヨセフの物語を思い出させる。ヨセフは兄たちに裏切られてエジプトに奴隷として売られたが、そこからエジプトの宰相にまでなり、飢饉に遭って支援を求めてきた兄たちに大いなる施しを与える。ヨセフは兄たちをまったく恨んでおらず、むしろ憐れみをもって迎え入れた。
私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。
創世記 45:4-5
*
イエスのことばとヨセフの態度を振り返り、サーバントリーダーとしての振る舞いについて考えることができた。
神の国の真理は、高ぶる者が低くされ、低くする者が高くされるということだ。それは神に対する謙遜と従順である。
神に対する、というのがポイントだ。
仕事の上で役職として上の地位にあったとして、それが神の目から見ていかほどのものであろう。そこで偉ぶる自分はいったいどれほどの存在であろう。
神の前に謙遜、そして従順でいること。自分を低く、低く。それがサーバントリーダーの基本であった。
だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。
マルコの福音書 9:35
イエスが十二弟子を諭したこのことばを、心に留めておきたい。
主によらねば

主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きを癒し、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
イザヤ書 58:11(新共同訳)
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イザヤ書は長くて難しい。
10年ほど前に1年かけて学ぶ機会があり、そこでグループディスカッションもしたのだが、理解は浅かった。その後、聖書塾でも学んだのだが、それでも難しかった。
預言的に記述されたことを、ユダヤ的教養のない我々が理解するのは困難だ。
どうしても断片的な理解に留まるし、その解釈にしても、書かれた意図を正しくつかめているかどうか怪しい。
イザヤ書は、書かれた時代や書いた人が異なり、第一イザヤ・第二イザヤ・第三イザヤと分割できるとする考えがある。私はこの考えを支持しないが、この分割によれば、今回の58章は第三イザヤになる。
この章で描かれていることは、時代的に言えば、バビロン捕囚から帰還後のエルサレムに対する警告や救いのメッセージと言えるだろう。
しかし、預言者が見る幻はその時代を超えて語られることもある。その場合、語られた言葉はその時代にはベールに覆われていて正しく解釈することができず、後の時代になって解き明かされる。
*
58章をアタマから読んでいくと「そのとき」という言葉が3回出てくることに気づく。
58:8
そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる。
58:9
そのとき、あなたが呼ぶと主は答え、あなたが叫び求めると「わたしはここにいる」と主は言う。
58:14
そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。
「そのとき」とは「どのとき」かと言うと、これは再びイエスが来られた後に到来する神の王国のことを指している。私はそう捉える。
イエスがこの世に来られ、イザヤ書に書かれていることを解き明かし(ルカ4:16-21)、預言が成就したことを宣言した。それによってようやく覆われていたベールが剥がされ(reveal:明らかになる)、その意味が分かるようになった。
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再臨のイエスが支配する王国において、私たちは主の栄光に照らされ輝く存在である。主を呼び求めれば、主は応答してくださり、そこには親密な関係がある。喜びに満ち溢れている。
私たちは月のようなもので、自ら輝くことはできない。太陽に照らされてはじめてその存在が認められるように、主の栄光に照らされて輝くことができる。
照らされなければそこは闇である。私たちも主に依らなければ輝きを得ることができないのだ。
今日取り上げた11節で描かれているイメージは、私たちが主によって輝きを得ることをわかりやすくしてくれる。
主は常にあなたを導く。
焼けつく地であなたの渇きを癒してくれる。
骨に力を与えてくださる。
あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
ヨハネの福音書の聖句を思い出す。この聖句はイエスのことばであり、つまり、イエスが主そのものであることを宣言するものである。
わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。
ヨハネの福音書 8:12
主であるイエスに従い、光の中を歩もう。
平和をつくる

すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。
へブル人への手紙 12:14
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戦後80年を迎え、改めて平和について考えた。
クリスチャンにとっての平和。それはイエス・キリストに倣うことである。
マタイ5章の「山上の垂訓」を思い起こす。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
(マタイ 5:9)
サラッと読むと気が付かないが、よくよく読んでみると、平和を「つくる」とは言わない。一番よく使うのは、平和を「願う」ではないだろうか。
あるいは、平和を守るとか、平和を求めるとか、憲法9条に記されているように、平和を希求するとかだろう。
しかし聖書では、平和を「つくる」のである。平和に対する私たちの態度や距離感がまったく異なる。
「つくる」は、作るであり、造るであり、創るである。そこには、極めて行動的で積極的な意味が込められている。
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私たちが「つくる」べき平和とは?
ヘブル人への手紙には、すべての人との平和を追い求めなさい、とある。
仲良くなればそれでいいのだろうか。平和を追い求めるときに、私たちはどうあるべきなのだろうか。
その答えも、前述した山上の垂訓に書いてある。
「平和をつくる者は幸いです」と書かれたマタイの福音書5章9節に至るまでの、3節から8節を見てみよう。そこには「〜者は幸いです」が繰り返されている。
3.心の貧しい者は幸いです。
4.悲しむ者は幸いです。
5.柔和な者は幸いです。
6.義に飢え渇く者は幸いです。
7.憐れみ深い者は幸いです。
8.心のきよい者は幸いです。
これらを踏まえた上で「平和をつくる者は幸いです」なのである。
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平和をつくることは、行動的で積極的な行為でありながら、かくも内面的なところを問われるのだ。
どれでもいい、1つ取り上げて自問してみるといい。たとえば、自分は柔和な者だろうか?と。
100%そうです!と断言できる人はいないだろう。
だから、それらを追い求めることが必要だ。平和を願っていても、平和をつくるためにはその前提となる内面的な充足を追い求めないと実現できないのだから。
平和を追い求めようとするプロセスで、心の貧しい者になり、悲しむ者になり、柔和な者になる。追い求めようとするから、義に飢え渇き、憐れみ深くなり、心がきよめられる。
平和を願い、追い求め、つくる人になろう。
主に信頼する

主に信頼する者に祝福があるように。
その人は主を頼みとする。
エレミヤ書 17:7
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アマプラで「奇跡の教室 〜受け継ぐ者たちへ」というフランス映画を観た。
原題は「Les heritiers」で、翻訳にかけたら「相続人」とか「継承者」という意味であった。「受け継ぐ者たち」というサブタイトルに原題の意味が込められていた。
この映画を見終わって、印象に残ったあるシーンを思い出し、礼拝説教で聞いたエレミヤ書17章を読み返していた。
エレミヤ書17章のテーマは「神に信頼する人の幸い」である。
今日掲げた7節のすぐ後にこのような聖句がある。
人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。誰がそれを知り尽くすことができるだろうか。
エレミヤ 17:9
映画に登場するさまざまな人の立場から考えて、思い巡らせていた。
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簡単に映画のあらましを。
この映画はフランスの高校での実話を元にしている。クラス担任の先生の提案で、アウシュビッツをテーマにした歴史コンクールに出場することになった学生たちが、人種・宗教などの多様性や包括性と正面からぶつかりながら少しずつ協調していく、そんな話。
クライマックスは、アウシュビッツの生存者レオンの話を聞くシーン。この男性、俳優ではなく実際に生き延びて来られた方で、学生たちに語っていることは劇中の演技であると同時に、彼にとっては紛れもない真実であった。
深い感動を与えてくれた映画だったが、レオンの言った台詞が引っ掛かった。
学生に「あなたは神の存在を信じますか?」と質問されたレオンが「私は無神論者だ。しかし皆さんのような人間を信じている」と答えたこと。
アウシュビッツの生存者が口にする言葉は重い。その言葉に異を唱えることなどとてもできない。想像を絶する凄惨な状況に置かれたら、たとえ神を信じる者であっても信仰が揺らぎ神の存在を否定してしまうだろう。遠藤周作の「沈黙」のように。
レオンがもともと信仰を持っていたかどうかはわからないが、自身の経験を通して無神論者を貫いたであろうことは想像できる。
人間の可能性を信じることは大切だ。
けれど、人間を信じることの危うさを知ることもまた大切だと思う。
*
エレミヤ書に戻る。
人間に信頼する者は呪われよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
エレミヤ 17:5-6
かなり厳しい戒めの言葉である。神からこころが離れ、人間を信頼することは荒地の灌木だと言う。完全に枯れきった木に実がなることはなく、そこにはいのちがない。
一方、神を信じる者にはいのちがある。
主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。
エレミヤ 17:7-8
水のほとりに植えられた木。
永遠のいのちのイメージがそこにある。いつまでも尽きることのない水の流れ、葉は豊かに茂り、多くの実を結ぶ。
詩篇の冒頭を思い出す。
幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。
詩篇 1:1-3
私たちは水のほとりに植えられた木として、神の祝福を受ける。
レオンの人生に思いを馳せる。主が彼の人生を確かに導いてこられたことを信じる。主はレオンを見捨てなかった。水のほとりに植えられた木として用いてくださった。
レオン氏は映画公開の翌年、息を引き取った。そして、視聴した私たちもまた「受け継ぐ者」となった。