善意の人は祝福を受ける。自分のパンを貧しい者に与えるからだ。
箴言 22:9
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善意の人は祝福を受ける。
この聖句、サラッと読んでしまうとさほど気にならないが、はたして善意の人ってどんな人だろう。
人の善意とは言うが、善意の人とはあまり言わないのではないか。わかったようなわからないような。ということで、英訳を見てみよう。
"Whoever has a bountiful eye will be blessed" となっており、一瞬"beautiful" の間違いじゃないか? と勘違いしかけた"bountiful" が気になった。聞き慣れない"bountiful" を調べると「惜しみない・気前よい・慈悲深い」といった意味があった。
なるほど、善意の人とは「他人に対して情けや憐れみをかけられる人」ということか。
貧しい者に自分のパンを与えるというシンプルな行為、つまり善行は、善意があってこそである。逆に考えれば、善意のない見せかけの善行は祝福を得ないということだ。
神は、行いだけではなく、その内面をみられる。
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ちなみに、この聖句は直前の句と対になっている。
不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。こうして彼への激しい怒りのむちは終わる。(箴言 22:8)
聖書の記述でよく見られる「種まき+刈り取り」の比喩である。不正という種を蒔くと、災いを収穫する。
そうは言っても、現実として世の中には不正が蔓延っている。不正の種をあちこちにバラまきながら、なおも平然としている者が多いのも現実。いやむしろ、そうして成功者になることを咎めない現実の世界こそわざわいか。
このようなとき、クリスチャンとして必要なのは、視野を広く、視点を深く、そして見る範囲を長くすることだ。
種を蒔いてから収穫までの正確な期間は、私たちにはわからない。自然界を支配しておられる神の領域だからだ。同じように、不正の種を撒いた者が、いつわざわいを刈り取るのかはわからない。すぐかもしれないし、何年も何十年も経ってからかもしれない。どころか、生きているうちは刈り取らなくていいかもしれない。
それでも私たちは、不正ではなく善意の種を蒔く。使徒パウロは言う。
失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ 6:9)
時がくれば神が動かれるのだ。
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種蒔きと刈り取りの話。
善意という種を蒔くためには、善意を持っていなければならない。当たり前のことだ。
しかし、どうしたら善意の種を得られるのか、否、そもそも善意の種なんて自分にあるのか?と不安になる。そこで、福音書にあるイエスの言葉を拠りどころにする。
…わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。(中略)そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。(ヨハネ 14:12b-17a)
信じる者に与えられるのが聖霊であった。
聖霊は私たちにさまざまな種を植え付けてくれる。それらの種が信仰によって芽を出し、実を結ぶ。そうだ、聖霊の実のことは、聖書にちゃんと明記されているのだ。「…御霊の実は、愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制です(ガラテヤ5:22-23a)」そう、9つすべて暗記するほどよく知っているではないか。そして、そこに「善意」がちゃんと入っているではないか。
こうして「善意」について、旧約聖書の箴言から新約聖書を通して眺めてきた。聖霊の働きに期待して、善意の種蒔きができるように。そして祝福が得られるように。
最後にこの聖句を心に留めたい。
種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。(第2コリント 9:10)
私たちの刈り取り、それは惜しみなく”bountiful” 与えることによって受ける神の祝福なのだ。ハレルヤ!