聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

マリアの謙遜

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神にとって不可能なことは何もありません。

ルカの福音書 1:37

For no word from God will ever fail.

Luke 1:37

 

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 生活に適用 〜Application〜
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来週からアドベント待降節)が始まる

ちょっと気が早いが「ルカによる福音書」1章を読んでみる。

イスラエルハマスの4日間の休戦のニュースを聞き、そこから、第一次世界大戦のクリスマス休戦のことを思いだし、そしてもうすぐアドベントだなと思い至り、ルカに辿り着いた。https://seishoforum.net/ebisu/2017/12/148/

クリスマス休戦は、戦争が始まって迎える最初のクリスマスに、前線で自然発生的に起こったことで、もちろんそのこと自体は大変素晴らしく、神さまのプレゼントであると思うのだが、それ以降に休戦になることは二度となく、結果として世界大戦と呼ばれるように多くの死傷者を出したという点で、美談だと手放しで喜んではならない。

今回のイスラエルハマスの休戦は自然発生ではなく、計画的に、恐らく何らかの意図をもってなされた点で異なる。

休戦が停戦になるようにと願う一方で、これを喧嘩両成敗みたいにイーブンに扱われることには抵抗を感じる。

なぜならハマスは国家ではなく、テロ組織だからだ。テロ組織と国家の争いを同等に扱うのは普通に考えておかしい。

休戦期間は当初の4日間から延長されたが、それが停戦に繋がるのか、はたまた、クリスマス休戦のように、さらなる激化への序章なのか。後者のような気がしてならない。

エスが神の子として生まれた2000年前、聖書的には旧約と新約の中間時代、世界史的には西にローマ、東に漢が覇権を争う時代であった。イエスが神の子として生まれた、と書いたが、それではイエスの神性だけを示していることになるが、実際はイエスは人の子としても生まれた。

言ってみれば、イエスは100%神の子であり、100%人の子である、ということだ。

ヘブル人への手紙2章には「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした(2:14-15)」とある。

エスが神性と人性の両方を持つことが、ここに記されている。

なかでも最も象徴的なことは、イエスが処女マリアから生まれたことであろう。

当時15、6才と言われる幼いマリアに天使ガブリエルが「おめでとう恵まれた方、主があなたとともにおられます(ルカ1:28)」と言い、マリアはひどく戸惑った。

ガブリエルは続けて「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません(1:30-33)」と言った。

このときのマリアの気持ちは知ることができないが、戸惑いを超えて恐れがあったことだろう。何しろ天使が目の前に現れて、神の子を授かると宣言されるのだ、恐怖と畏怖が入り混じっていると想像する。

マリアのその感情を抑えるように、ガブリエルは神の全能さを伝える。それが今日の聖句である。

私たちはこのマリアの態度に倣う。

神に対する恐れを持ち、そして神の前で謙遜であり、神に従って生きる。

冒頭に述べた中東の争いを思うとき、神に対する正しい恐れを持ち、争う前に謙遜であることをイスラエルにもハマスにも切に願う。特に、リーダーである為政者に対して求める。

マリアは最後にこう言った。

「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。(1:38)」

すべての人が神の前であるべき従順な態度である。

どうぞ神の計画がなされますように。

 

昼のもの

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しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。

テサロニケ人への手紙 第一 5:8

But since we belong to the day, let us be sober, putting on faith and love as a breastplate, and the hope of salvation as a helmet.

1Thessalonians 5:8


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前回に続いて「主の日」のことを考えていく。

まずは、テサロニケ人への手紙第一の5章のいくつかの聖句を拾ってみる。

・主の日は盗人が夜やって来るように来る。
・人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように突然の破滅が襲う。
・それを逃れることは決してできない。
・暗闇の中にいないなら、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはない。

暗闇とか破滅とか、「主の日」には恐ろしいイメージがつきまとう。旧約聖書ゼパニヤ書のこの預言が下敷きになっていたことが予想される。

主の大いなる日は近い。それは近くすぐにも来る。主の日に声がする。勇士の悲痛な叫び声が。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、角笛と、ときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。(ゼパニヤ書 1:14-16)

この預言、確かに怖い。パウロは煽っているのか?

* 

聖書に精通していたパウロは、ゼパニヤのこの預言のことも当然知っていた。

しかし、聖書を熟知しているからと言って、それをただ引用したかったのではない。パウロが「主の日」のことを語るのは、人々に恐怖を与えたいのでもない。

復活のイエスに出会い改心したパウロは「主の日」の認識をも改めたはずだ。

確かに預言にはそう書いてあるし、「主の日」の恐怖を植え付けられているけど、それが私たちの終わりなのではない。

パウロは闇の中に光を見、破滅の中に希望を見ている。だから、暗闇とか破滅とか述べた直後に「私たちは昼の者」であると断言するのである。

正しい理解を促した上で、では、どう過ごせばいいのか? を説く。

将来を見据えながら、視点はむしろ「いま」にある。

5章の続きを示そう。

・眠っていないで目を覚まし、身を慎んでいましょう。
・神は、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださった。

・私たちが目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるために、主が死んでくださった。
・互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。 

ここにはパウロの信仰による確信がある。

パウロの主張は明確で、それは「目を覚ましていなさい」ということである。

たとえいま闇の中を歩んでいるとしても、私たちは昼の者、光の子として生きていくのだと。

胸当ては心臓を保護する防具であり、敵の攻撃によって致命的な傷を負うことのないようにするためのものである。信仰と愛を胸当てにするとは、それによって闇の力、つまりサタンから身を守ることである。

救いの望みをかぶとにするのも、胸当てと同じように闇の支配を受けないためだ。

信仰・愛・希望をもって光の中を歩もう。

 

 

善でいよう

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善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、ともにいてくださる。

アモス書 5:14

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ハマスイスラエルを攻撃してから1ヶ月以上になる。

ロシアとウクライナがそうであるように、戦争は長期化するとその状態に慣れてしまう。異常が平常に、不自然が自然に変わってしまう。報道に触れても過剰に反応しなくなってしまう。

中東の戦争についても、最初はイスラエル安息日に攻撃を受けたこと、多くの人が殺されたこと、そして捕虜になったことを大々的に報じていた。ハマスのテロ行為に過剰に反応していた。

しかし、イスラエルが報復攻撃を仕掛けると、今度はガザの惨状が大々的に報じられ、イスラエルの反撃の凄まじさに過剰に反応するようになった。

そしてその状態が続いている。

国連のイスラエル批判は周りに大きな影響を与える。そもそも、どっちもどっちなんだから停戦して頭を冷やしなさいという、いわゆる喧嘩両成敗的なアプローチが、ハマスのテロ行為を助長することに繋がるという認識はないのだろうか。

テロ組織と国家の戦いにおいて、守られるべきは国家でありテロ組織ではない。

それを、テロ組織が潜伏する地域に住む住民の生命の保護を最優先に据え、つまり人道的立場に立って、攻撃をやめなさいと言えば、喜ぶのは住民ではなくテロ組織である。

住民が望むのは、争いよりもテロ組織の消滅なのに。

クリスチャンである私たちにとって、イスラエルが攻撃されることは、驚きを超えてショッキングである。

なぜなら、この争いを歴史的に、そして聖書的に認識するからだ。

人道的支援はもちろん大切である。しかしそれよりも大切なのはテロのない世界の実現である。

そのためには正しい歴史認識が欠かせない。そのためにハーベストの中川牧師の動画が役立つ。

https://m.youtube.com/watch?v=KITIPlQYUVc

アモス書5章は哀歌である。

南王国ユダの一介の羊飼いであるアモスは、神に預言者として召され、隣国である北王国イスラエルに対する罪と裁き、そして破滅のメッセージを綴った。

このメッセージは、歴史的にはアッシリア捕囚のことを指すが、預言的には「主の日」を示す。

「主の日」とは、キリストが地上に再臨して始まる、神の統治による千年王国のことである。

しかし、アモスは「主の日」について喜びを語らない。

ああ。主の日を切に望む者。主の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない。(5:18)

だからこそ、今日の聖句のように、求めるべきは悪ではなく善であり、そうすれば主は私たちとともにいてくださる。

善を求める生き方。

アモスはこうも述べている。

公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。(5:24)

善とは公正であり正義。

私たちは、善を行なうよりも、善でいることを切に望む。公正と正義を纏いたい。

 

高い者は低く

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だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

マタイの福音書 23:12

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エスが律法学者やパリサイ人(ユダヤ教の宗教的指導者)に対する批判を語る場面。

23章の冒頭から今日の聖句である12節に至るまでに、イエスが話したことを箇条書きにして、そこから適用を考えたい。

・彼ら(律法学者・パリサイ人)があなたがた(弟子・群衆)に「言うこと」はすべて守りなさい。
・しかし、彼らの「行い」をまねてはいけない。・彼らは人々に重い荷を載せるだけ載せて、それを助け支えるために指1本出さない。
・彼らの「行い」は人に見せるためである。
・先生と呼ばれることに慣れており、それを求めている。

彼らは言っていることと行動が伴っていない、有言「不」実行、言行「不」一致であると、痛烈に批判した。「おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ(マタイ 23:28)」と、舌鋒鋭い。

言っていること、つまり「教え」そのものは聖書に書かれていることだから、正しいのは当然。だから守る必要がある。

しかし「行い」は見倣うものではない、と。

エスが生きた時代、それは旧約聖書新約聖書の狭間の時代(中間時代という)であり、その頃の中東パレスチナはローマの支配下にあった。

世界史を眺めると、時の為政者がペルシア帝国からギリシアに移り、アレクサンダー大王の死後、帝国が分裂し混乱し、やがてローマが台頭する、そんな時代である。ちなみに中国は秦・漢、日本はなんと弥生時代である。

このような混乱と不安の時代に、ユダヤの指導者は律法に忠実に生きることを人々に求め、人々は聖書に預言されたメシアを待望するようになった。

宗教的指導者たちは、守るべき聖書の「教え」に群衆が忠実であるために、膨大な数の取り決め(=新たな「教え」)を張り巡らせた。これを口伝律法というが、イエスはこれについては激しく戒めている。

このように「教え」を細かく設定し、日常生活をがんじがらめに縛ることによって、彼らは専門家として先生として、高いところに存在する者であることを顕示した。

エスは最も高いところに存在するお方であるのに、低き者としてこの世に来られた。

「ピリピ人への手紙」を引用する。

キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。 (ピリピ 2:6-9)

そして、イエスは「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」と教えた。

さらに「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい(マタイ20:28)」と、へりくだりと奉仕の精神を求めた。

現代に生きる私たちは、ユダヤ教信者のように口伝律法に拘束されることはない。イエスが教えたシンプルなルールを胸に刻んで、神に喜ばれる生き方を求めるのみだ。

この世に功績を残す必要はない。天に宝を積もう。結果を神に委ねよう。

神はすべてを益としてくださる。
  

14才の信仰

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あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

ペテロの手紙 第一 1:8

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先日の礼拝で2人の中学生の洗礼式があった

受洗者は会衆の前で信仰告白をする。これまでの歩みや神との出会い、イエスを自らの救い主として受け入れる決心、そしてこれからの歩みを神に委ねることへの決意を聞いた。

以前、ここにも記したように、受洗者からは事前に賛美のリクエストをもらっており、1人はStill(静まって知れ)であった。そして、もう1人はGod bless youであった。

着替えに時間がかかることから、サブのリクエストもあって、Nothing but the blood of Jesus(罪の汚れを)とBecause He lives (主は今生きておられる)の2曲であった。

リクエストはどれもクラシックで、ノリやテンポがいいというより、しっとり歌詞を噛み締めながら歌う感じである。

2人の証しを聞いていても感じたことだが、中学2年生にして信仰が成熟している。選んだ賛美も実に大人っぽい。


今日の聖句は、1人の証しの中で紹介されていたものだ。

彼女はクリスチャンファミリーに育ち、幼い頃から神の存在を疑うことなく素直に成長した。その成長をずっと見守ってきた者にとって、受洗の場に立ち会えることは大いなる祝福である。

証しでは、神さまが自分を守ってくれることを当たり前に思っていたものの、徐々に心が離れている感覚も同時にあったこと。特に中学生になってからは祈ることもしなくなっていたこと。しかし、夏のキャンプで原罪のことを学び、自分の罪について深く考えたこと。そして、洗礼に導かれたこと。

時系列に沿って彼女自身の心の動き、揺らぎ、決意が語られた。

自分の罪の性質(罪性)に気付き、それを受け入れ(認罪)、会衆の前で公に言い表す信仰告白へと導かれた。

14才が語る信仰の旅路。自然と涙が出る。

この聖句を2節前の6節途中から引用してみる。

今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。(第一ペテロ 1:6-8)

私たちはイエスに会ったことはない。しかし、信じている。愛している。喜び踊っている。

試練にあうとき、その試練によって磨かれた私たちの信仰は何よりも高価で、終わりのときにはその信仰をもって神を称賛し、栄光を表し、誉れをもたらす。

これはまさに信仰の旅路の終着点と言えるだろう。

リクエストされた賛美をドラムで奏でながら、みことばを噛み締め、彼女たちのこれからの歩みに主の導きと守りがあることを願った。

ほめうた

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主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。

サムエル記 第二 22:1

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礼拝賛美でこれまでずっとドラムを叩いてきた。

16のときから始めたドラムは、高校や大学でたくさんのバンドで演奏することでそれなりに磨かれた。それで生業を立てようとは思わなかったが、大人になってからも叩く機会は割とあった。

なかでも、教会でプレイズチームの一員としてドラムを叩いて賛美をするというのは、想像をはるかに超える祝福があった。

かれこれ15年近く続けている賛美奉仕であるが、何回かドラムを叩きながらコーラスを担当したことがあった。

賛美を歌う行為は、叩くのとは違った直接的な喜びや感動を得られる。

先日の礼拝で、とうとう叩きながらではなく、単独のボーカルとして賛美を歌うことになった。仕事の都合で参加できなかったメンバーのピンチヒッターとしてである。

緊急登板だからといって手を抜いていいわけはなく、事前に何回も歌って練習した。コーラスではなくメインボーカルだから、自分が気持ちよく歌えればいいのではなく、会衆とともに主に向かって献げるよう導く役割がある。

若き日のダビデは、ミケランジェロの彫刻のように逞しく、そして美しかった。

サウルに召し抱えられたダビデは、始めこそサウルの寵愛を受けていたが、次第に命を狙われるようになった。サウルは精神を蝕まれており、若くて美しいダビデを妬んでいたからだ。

サウルの悲壮な死によって救われたダビデが主に捧げた誉め歌が、今日の聖句である。

2節から51節まで続くダビデの歌、そこには、ダビデが経験してきた苦難と嘆き、神への従順と信頼、そして感謝と喜びが刻まれている。

最初の数節だけ取り上げてみる。

主よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。
(第二サムエル 22:2-4)

サウルの死後、この歌を主に向かって歌ったダビデに想いを馳せる。

さて、ボーカルデビューであるが、ピアノとアコギに合わせて、丁寧に歌った。

会衆と一緒に主に献げようと、気持ちを込めて歌った。

礼拝後に配信用の動画で賛美を聞き返したところ、音を外していたり、独り善がりに歌っているところがあった。次回に向けての反省点である。

それでも何人かの方、特にシニアのご婦人方から、お褒めの言葉を頂戴した。これからも歌ってほしいと言われて、素直に喜んだ。

今回の経験を通して得たこと、それは、歌うときと同じようにドラムを叩けたらいいなということ。ドラムは慣れているがゆえに、叩きながらつい雑事に心を奪われたり、次にこんなフィル(ドラムのフレーズ)を入れてみようかなと考えたりしてしまう。

ではなく、会衆が賛美を献げる気持ちになれるようにリズムを刻む。それは、歌うように叩く、ということかもしれない。

来週の礼拝での私のドラム演奏はひと味違うはずだ。そうありたいし、そうなれるように祈ろう。

Keep the rhythm with faith.

主こそ神

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喜びをもって主に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来たれ。

詩篇 100:2

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150篇ある詩篇の2/3のところにあるのが詩篇100。

礼拝の冒頭で招詞として扱われることも多い箇所である。簡潔で、かつ全体は1から5節と短いので、ここに全文を載せたい。

全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来たれ。

知れ、主こそ神。
主が私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民。その牧場の羊。

感謝しつつ、主の門に
賛美しつつ、その大庭に入れ。
主に感謝し、御名をほめたたえよ。

主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで
その真実は代々に至る。

詩篇100は「感謝の讃歌」という。

創造者である神を覚え、感謝し、喜び歌う。そう思って改めて詩篇100を読むとまるで歌の歌詞のように思えてくる。

実際、ヘブル語で読むと韻を踏んでいたりして、歌になっていると思う。私にはわからない世界ではある。

しかし、この日本で、詩篇100を歌にしてくれる人たちがいる。つい最近知って、口ずさんでみたが、これが素晴らしいのだ。

感謝と喜びを内に秘めるのではなく、もちろん秘めていいのだけど、それより、外に向かって弾けるようにことばを、感情を、エネルギーを放出する。それが日本語賛美の詩篇100。

聴いてみよう。

https://youtu.be/7O4BeAEDuaY?si=-l7Jyb0CEZOH8kR8

サビの「知れ、主こそ神!」のほとばしり、最高だ。

賛美をしながら、3つのみことばが浮かんだので書き留めておきたい。

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。(詩篇23:1)

1つめはこの箇所。テーマは謙遜。

私の羊飼いが神であると確信することで得られる、謙遜と平安。ゆえに、乏しいことはないと言い切ることができる。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ 4:6-7)

2つめはこの箇所。テーマは従順。

自分の都合に合わせて祈ったり、あることは自力で頑張るけど、この部分は神さまお願いします!と、願いを選り分ける。これは神をコントロールしようとしていることになる。

つまり、神になろうとする傲慢である。

あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:32-33)

3つめはこの箇所。テーマは信頼。

God First. まず神を求めること。神の義がなされ、神の国の到来を待ち望むこと。神への信頼は、どこかの偉い信仰者が担うのではなく、私たち1人1人が受け入れることで示される。

あぁ主よ、イスラエルの地に平安を与えてください。争いが1日も早く収まるようにしてください。