ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
ガラテヤ人への手紙 3:28
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新約聖書で「〇〇人への手紙」と言えば、そのほとんどは、使徒パウロが地域教会の信者に宛てて書いた書簡である。
「ガラテヤ人への手紙」は、AD50年頃に小アジア(現在のトルコ)のガラテヤ地方にあった複数の教会に向けて書かれた。
「コリント人への手紙」は、ギリシアの港湾都市コリントに住む信者に向けて書かれた。
いずれもパウロが書いたものであるが、今日の聖句(ガラテヤ)と別の聖句(コリント)を同時に読むと、これが同じ人物が書いたものなのか?と思ってしまう。
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今日の聖句で取り上げた、ガラテヤ人への手紙3章28節では「国籍も身分も性別も関係なくみなキリストにあって1つ」とある。
ところが、同じくパウロが書いたコリント人への手紙にはこう書いてある。
女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。
(第一コリント14:34)
ガラテヤの聖句を知らずに、コリントの聖句だけを読んでしまうと、パウロは女性軽視のミソジニストではないか?と思ってしまう。
2000年前の状況を現代から見て、男女差別や女性軽視を述べることは難しいと思う。価値観は時代によって変わるし、聖書的価値観さえ時代に左右されるものだ。聖書そのものの解釈でさえ影響を受けるのだから。
だから、上掲した2か所のパウロの言葉だけを取り上げて、パウロは女性軽視だとか、聖書は一貫性がないとか述べるのは間違いだと思う。細かい点を丁寧に見ていくと、パウロは女性軽視というよりも、実力主義者だったのはないかと思わせる。
ちなみに第一コリント14章は、後世に挿入されたという説もある。
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新約聖書に登場するパウロの仲間にアキラとプリスカ夫妻がいる。彼らは天幕(テント)職人という共通の仕事を持っていることで意気投合したことが「使徒の働き」に記されている。
その後、パウロはアテネを去ってコリントに行った。そこで、ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会った。(中略)パウロは二人のところに行き、自分も同業者であったので、その家に住んで一緒に仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。
(使徒18:1-3)
出会いの場面では、夫のアキラ、妻のプリスキラ(プリスカの愛称)の順で記されている。ところが、同じ章の後半になるとそれが逆になる。
パウロは、なおしばらく滞在してから、兄弟たちに別れを告げてシリアへ向けて船で出発した。プリスキラとアキラも同行した。
(使徒18:18)
このように、プリスキラの方が先に書かれる。パウロの伝道に同行した夫妻であるが、プリスキラの働きをパウロは大きく評価していたと思われる。次の節もそうだ。
彼は会堂で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。
(使徒18:26)
また、別の書簡に書かれた夫妻への挨拶を見ても同じであった。
キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。
(ローマ16:3)
プリスカとアキラによろしく。
(第二テモテ4:19)
このようにプリスカの名前がアキラよりも先に書かれているのは、彼女の方が教会において影響力を持っていたためではないかと考えられる。
結局、パウロの女性観はどうだったか分からないが、男女に関係なく実力(聖書的には賜物=gift)を重視していたことは間違いない。
私たちはパウロのことを首尾一貫していないと批判することなく、パウロだって私たちと同じ人間なのだから間違ったことを口にするし、過ちも犯すものだと寛容でありたい。
最後に、第一コリント11章のパウロの言葉で締めくくる。
とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。
(第一コリント11:11-12)
私たちは、キリスト・イエスにあってひとつ。