聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

主はぶどうの木

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わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。


ヨハネ福音書 15:5


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娘が保育園に通い始めたころ、最初に覚えた聖句がこれだ。


といっても、この箇所すべてではなく、最初の1文だけ。「わたしはぶどうのき、あなたがたはそのえだです。ヨハネ15しょう5せつ」と、元気いっぱいに言っていたことをよく覚えている。


無類のぶどう好きな娘のことだから、たわわに実ったぶどうを、いや、木になっているぶどうは知らないだろうから、お皿に盛られたぶどうの房をイメージして、この聖句をそらんじたのかもしれない。


この聖句、イエスがぶどうの木で、私たちが枝であることを認識することは大切なことではあるが、その続きの方にこそ、私たちへの教訓はあると思う。


エスが命じているのは2つ。


1つは、イエスにとどまること。当たり前のことだけど、枝は枝でも折れてしまえば、何もできない。薪として火に投げ込まれておしまい。折れずにしっかり木にとどまっていなければならない。木からの養分をしっかり蓄えないといけない。


もう1つは、多くの実を結ぶこと。枝の役割は、木からの養分を蓄え、そして豊かな実をつけることだ。実を結ばなければ、もはや枝としての役割はないに等しい。



少し続けて読んでいくと、7節8節にこうある。


「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら…求めたものは叶えられます」「あなたがたが多くの実を結ぶことによって…父なる神が栄光をお受けになられます」


私たちが枝としての役割を全うし、多くの実を結ぶことは、父なる神の御心であったのだ。


枝として、枝らしく、枝なんだからと、決して独力でがんばって実を成らすのではなく、むしろ木にとどまることで、木であるイエスを通して養分としての知恵や力を授かり、そして実を結ぶのである。


どんな実か?


それは聖書の別の箇所に書いてある。


「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ 5:22-23)


こんなに? と思うだろう。こんなに実をつけるなんて無理だと思う人もいるだろうし、こんな実を結ぶことができるのだと希望を抱く人もいるだろう。


これら9種類の実をパーフェクトに揃えることに重荷を感じることなく、日ごとに、いや、そのときそのときに、自分はどの実をつけたいんだ?と自問するといい。


久しく会っていない友人に会えたときには喜びの実を、困っている人の手助けをするときには親切や善意の実を、怒りに我を忘れそうになったときは柔和や自制の実を。


こうしていろいろな実をつける自分になっていければいい。



そうイメージすると、私たちが枝としてイエスにとどまり多くの実を結べることが、どれほど素晴らしい祝福であるがわかる。


ブドウの実は、種類も大きさも味もまちまちであるように、私たちが実らせるものもまた人それぞれ、千差万別である。そして、それは神の御心なのだ。


「主はぶどうの木」という讃美歌がある。


シンプルなメロディで誰でも口ずさむことができ、ヨハネ15章のぶどうの木のたとえを、短い歌詞に上手に乗せている。大好きな讃美歌の1つだ。


主はぶどうの木 わたしは枝です いつも離れずに
主はぶどうの木 わたしは枝です 豊かな実を結ぶ
御言葉にとどまり 愛に生きるなら
この世は知るでしょう 主の救いといやし
主はぶどうの木 わたしは枝です いつも離れずに
主はぶどうの木 わたしは枝です 豊かな実を結ぶ


https://youtu.be/4bh42v2itog

 


みことばを噛みしめつつ、賛美しよう。