サウルはダビデを恐れた。それは、主がダビデとともにおられ、サウルを離れ去られたからである。
サムエル記 第一 18:12
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前回は恐れ、しかも人に対する恐れを取り上げた。
分からないから不安になる。不安が増幅すると恐れに繋がる。
が、そもそも人のことなんて分かりようがない。だから、人に対して恐れること自体、もしかしたら傲慢なのかもしれないと、綴った。
さて、今回登場するのはサウル。
サウルは、イスラエル初代の王である。聖書でのサウルの登場シーンは実に神々しい。
「彼は美しい若者で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民の誰よりも、肩から上だけ高かった」
このように、サウルは見目麗しい男であった。
また、見た目の良さだけでなく、神の霊がサウルとともにいたので、イスラエルの王として油注ぎを受けた。
「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ」
こうして、神はサウルを見初めた。
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サウルが王になってから、戦場で死ぬまでのストーリーは、旧約聖書のサムエル記第一に詳しい。
預言者サムエルの誕生、サウル王の登場と油注ぎ、ダビデの登場と油注ぎ、そしてサウルの変貌と死をもって、サムエル記第一は終わる。
長い長いストーリーである。ここにはサウルの栄枯盛衰が生々しく描かれている。王としての栄光を失ってから、精神に異常を来たし、癒しのために召し抱えた少年ダビデを寵愛し、憎み、そして恐れた。
サウルがダビデを恐れた理由、それが今日の聖句である。
それは、自分から離れていった神の霊(見た目には戦いに勝つとか、民からの賞賛とか名誉といった祝福)が、ダビデのところに移ったことが明らかになったからである。
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サウルはダビデを恐れた。
神を恐れず、人を恐れた。
人を怒れることは傲慢であると述べたように、サウルも傲慢だったのか?
いや、見初められたときは…
サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか」
と、謙遜だったのだ。
謙遜であったのに、神の祝福が増大するにつれ謙遜は慢心に変わり、慢心は傲慢に変わっていった。
私たちにとっては、大いに教訓があると思う。
物事が上手くいかないときは神頼みするが、上手くいくと自分の手柄だと勘違いする。失敗すれば神を罵るが、成功すれば努力が実ったと過信する。
サウルを反面教師にしなければ、聖書を通して豊かな人生を送っているとは言えない。
最後に。
預言者サムエルがイスラエルの民に命じたこの言葉を心に留めたい。
「ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい」